平等にすべての人を尊重し、相手を傷つけないように。でも、我慢しすぎないで。逃げてもいいんだよ。
── という絶妙な “ぬる湯” を保つことが是とされる風潮が浸透しはじめて、何年になるだろうか。
わたしは温泉でのぼせやすい体質で皮膚が猫舌みたいな感じだけど、温泉の温度は高いのが好き。湯船の入り口で水を入れた手桶で慣らしながら足をつけて、そこから少しずつ上半身まで浸かっていって、結果的に熱いお湯で芯まで温まりたい。とくに冬はそう。
“手桶を使って慣らしながら少しずつ” はわたしがやることで、わたしのような人間のために最初から温度を下げてあったら “手桶で慣らしながら少しずつ” という手順も工夫も生まれない。
こんなプライベートな工夫はいちいち公開も主張もしないし、これはわたしがわたしを知るための工夫。
温泉のお湯と同じように、人の体温も心の温度もまちまち。アップダウンもするし、外気の影響も受ける。だからその時々で工夫をする。
これは、鼻うがいで最適な塩分濃度を調整するのとはわけが違う。
この、濃度と同じように温度も一定に調整できると思っているところに、昨今求められる “アップデート” の滑稽さがあって、わたしはそこを、くだらねーなー。と思っています。
この小説に登場する女子高生たちはこの違いを知っていて、だから大人たちにそこまで求めていないし、濃度差も温度差もただ感じているだけ。
文字のメッセージでこんな会話をしています。
『あけおめ いま親戚の家 やんわり地獄みがある』
『あけおめ それな』
『帰りたい』
わかりみがある世界。
この小説を読むと、ヤングが「りょ」と「了解」を略すコミュニケーションの合理性がよく見えてきます。「パートナー」という言葉の窮屈さも手に取るように伝わってきます。
関係性に貼るラベルに依存する人と、ブロックする理由を正当化する思考ばかりしている人の立場が反転する瞬間の設定には、ヤラレタ〜という気持ちで、これは小説でなければ書けないこと。
なんの関係性もない人のことをなんとなく好きだと思う気持ちは、わたしはこれこそが人間に生まれたことの喜びでしょうと思うほど素晴らしいことだと思っているので、「それをこんな形で書くなんて、なんだかおもしろいのだが!!!」という驚きと感動がありました。