うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ちょっと踊ったりすぐにかけだす 古賀及子 著

こういうのを待っていた。なんかうれしい。生活を慰めてくれる日記。

わたしはこれまでスニーカーのラバー部分をメラミンスポンジで擦って新品風の状態にするなんて小賢しいことをしていながら、なぜかマグカップはハイターの泡スプレーできれいにすると決め込んでいました。自分が決めたルーティーンに縛られていました。

こういうことって、いっぱいあります。現代の生活には選択がありすぎるから。

メラミンスポンジでマグカップの内側をキレイにして、それがとっても簡単で、読んで得した気分です。

 

 

この日記を読みながら見える世界は、人々がちょっとしたことをいちいち口に出しながら回している日常。口に出すことの意義の大きさが急に浮き立ったり、出てくる相談の雑さが絶妙だったり、ときどき指摘が的確すぎたりして、文字で読むことでハッとします。

著者は5人きょうだいの長子だそうで、長子が長子を心の中でねぎらうくだりがジーンときました。

 

 

  うらやましくて泣ける!

 

 

5ページに1回笑って10回ニヤついて3回涙を流すくらいの配分で進んで、一冊の中で大爆笑が5回くらい。

ちょっとしたことに生きる手応えを得る技術の数々と、その表現が印象に残ります。

 

 

いままさに全国で発生している、子どもの夏休みに食事を用意し続けることについても、著者は「やりすごすように日々をちぎっては投げしてきた」と書きます。ちぎっては投げる毎日。

群がる鳩や鯉のいる池に食パンをちぎって投げている感覚が漠然と浮かんできます。

 

 

「泣いた赤鬼」の喩えがそこで出てくるのすごい

お子さんがお祭りでおやつをもらってきて、その内容の豪華さに切なくなる話がありました。ここで赤鬼視点が出てくるなんて! と思いました。

こんな無料特典を用意しなければいけないと考えているとしたら・・・せつない。という場面で、赤鬼のありようを重ねています。

 

わたしは、嘘でも悪者を設定しなければ話が進まないだろうと考えるときに、同じ物語を思い出します。これは青鬼的な発想。赤鬼の思考を類推する著者の視点を読むと、自分が卑屈に見えてきます。だけどたぶん、感じていることは似ている。

 

そのしばらく後に、先日友人から相談されたことを思い出しました。

友人から、“軽い口調で死にたいと口にする同僚と話すことに疲れた” という相談をされました。彼女はその同僚に対して残酷な気持ちを抱く自分を責めていました。

それは赤鬼に対して「悲しんで泣いて、で?」と冷めた視線を向ける自己認識イメージからの傷つきです。

 

こんなにもいろんな感情が「泣いた赤鬼」で溶かせる。

あらためてこの物語のカバー領域の広さを知りました。

 

 

リズムが最高!

何度も爆笑しました。

ときどき出てくる、娘さんが、お母さんにぬいぐるみを持たせておしゃべりをさせる話が好きです。

ぬいぐるみに年齢を聞いたらお母さんが望み通りの年齢を言わない(自然に40代の設定で返そうとする)のを察知してからの、物語の軌道修正スピードがおもしろくて。

冷やし中華を鼻から出す話も大好きです。

なんとなく嘉門達夫の世界。

 

  *   *   *

 

このほかにも、不正使用されたクレジットカードの作り変えが面倒なのに、コールセンターの人に優しくされてうれしくて、しまいにはわくわくするなんてのは、わたしが5月に経験したことそのものだし、「よそのまちのスーパーをうらやむ」というのも、わたしは八百屋でそれが起こりがちです。土曜日の外出の警戒事項になっています。大きなエコバックをついリュックに入れようとします。八百屋は日曜休みのところが多いので、日曜はその頻度が下がります。

 

息子さんの「マイナスをゼロにする幸せと、ゼロをプラスにする幸せがあるとしたら、前者のほうが好き」という話も、どっちがデフォルトかを知っている感覚がよくて、家庭の中で個人が携えている楽観と悲観がクロスしながら編まれていきます。

「これが家族の距離感か」というつぶやきがどこかにあったと記憶しているのだけど、それは大人になって親になった人が見る景色で、ああそうかそうなんだよねこういうことなのね。

そんなことをあらためて発見する幸福な時間でした。