うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ぼくはテクノロジーを使わずに生きることにした マーク・ボイル著/吉田奈緒子(翻訳)

著者は『ぼくはお金を使わずに生きることにした』という本が大ヒットし、その印税でアイルランドのゴールウェイ県に1万2000平米の小農場を購入して移住。今度はテクノロジーを使わない生活にチャレンジしている人で、この本はその最初の1年間の記録した、ドキュメンタリー・エッセイです。

すでにオーガニックライフの有名人という前提で書かれているので、まったく知らなかったわたしのような人は先に訳者の解説から読んでしまうのがよさそう。

その文章はネット上で読めます。

 


わたしは先の『ぼくはお金を〜』を読まずにいきなりこの本を読んだのだけど、ちょっとなにこれ文章がおもしろすぎると思う箇所がいくつもありました。

表現構成に慣れてしまえば、読みやすい読みにくいの問題ではなくなってきます。

 


これはきっとドンキホーテの店舗レイアウトが利用者をわざと回遊させるのと似たもの。著者は現代メディアの病理を熟知したうえで、わざとこの方法を選んでいるのではないか。
こういうことを短い言葉でパッと表現されている箇所が「自分の場所を知る」という章にありました。

 

 

  人びとの集中力低下がカネになる

 

 

わたしがこの本を手にした理由も、まさにこれについて書かれていることを期待したから。

著者はプロローグでも謝辞でもずっとそこを意識していて、謝辞は「ならばいっそのこと、シンプルにいこう。森羅万象に感謝をささげます。」と、J-POPみたいになっている。
最後まで読むと一周も二周も三周も四周もしてこんなダサいことを言う人を信用したくなってくる。
ヴァンダナ・シヴァクリシュナムルティなどのインドの思想家の名前が登場するのもずるい。人間の欲に対して強い嫌悪感を持ちすぎて、その仕組みを越えるために葛藤している。自虐も最高にユニークです。

 

 きょうで三八歳になった。そろそろ中年の危機に直面するのだろうか。もうすでに突入しているものと、ほとんどの人から思われているかもしれないが。
(春 より)

読みながら思わず「だは」と口に出して笑ってしまう。そんな内面吐露が随所にあって、お茶目。

 


テクノロジーを使いたくないと思うようになる理由のなかの以下は、わたしも大きく頷くところでした。

 イングランド西部のブリストルでオーガニック食品会社を運営していたころは、鍵だらけの生活を送っていた。家の鍵、自転車の鍵、職場で使う鍵一式。最初はどうとも思わなかったが、時間がたつにつれ次第にうんざりしてきた。かたっぱしから鍵をかけねばならない場所では暮らしたくない。(冬 より)

ほんとよー。とくに自転車。

 


おもしろいところはほかにもたくさんあるのだけど、この本のなかに登場する釣りと魚の話が一番印象に残りました。

長い引用になりますが、独特の語りのおもしろさがあります。

 湖にて。カワカマスを釣りにきたのに、なんとサケがかかる。人生はじめての経験だ。必死の抵抗を示すサケ。ついにぼくは彼女を引きあげ、針をはずし、手中におさめた。さて、これからどうしよう。
 法律は命ずる。「一一月はサケの漁期外だから湖に戻したまえ」。わが胃袋は主張する。「いまが何月だろうとかまうものか。腹が減ってるんだから殺せよ」。わが両の目は彼女の目をのぞきこみ、そこに野生の心意気を認め、人間がこれまで彼女の同類にしてきた仕打ちに思いをはせる。
頭がいう。「湖に戻すべきだ」。ぼくのなかの動物は異をとなえる。「文明人づらはよせ。こいつは肉だぞ。遡上するサケを捕るクマが、産卵期がどうのこうのと気にかけるか? さっさと食っちまえ」。頭が反論する。「クマは川にダムをこしらえて環境を破壊したり湖を汚染したりしないだろ。彼女を湖に返してやれ」。ふたたび胃袋が、ここで腹を空かせているおれの存在を忘れてくれるなと訴え、ようするにわが肉体も彼女の肉体に依存しているのだと思いださせる。手は、彼女のなかに脈打つ崇高な命を感じとり、この命が先々長らえて繁殖していくようにと望む。現代の釣り人にとって、サケを釣りあげることなどまず一生に一度のできごとだから、「せめて証拠写真ぐらい撮っておけよ」と言われそうだ。だが、ぼくに写真を撮ることはできないし、たとえできたとしても、撮りたいと思わない。傷つけたうえに侮辱を重ねる必要はなかろう。
 もう一度、彼女の目をのぞきこみ、水中に投げもどす。法律でさだめられているからではなく、うーん、なぜかは自分でもよくわからない。胃袋にとっても判然とせぬ理由により、ただなんとなく気が乗らなかっただけだ。
 ふたたび釣り糸を投げいれ、この国の釣り人らしからぬ望みをいだく。次はカワカマスがかかりますように、と。物事は単純なのがいちばんいい。
(秋 より)

そうか、この人は望んだ以上のものを手にいれることに対する罪悪感が強いのだ。それを「ラッキー」と思うことについて葛藤している。 セコい、厚かましいマインドに悶えている。
「クマは川にダムをこしらえて環境を破壊したり湖を汚染したりしないだろ。」のあたりが肝だろう。
それにしても、なぜサケはそんなにも救うべき存在なのか。カワカマスの立場は?
なぜサケは捕まったことが侮辱になるのか。だから、カワカマスの立場は?

 

 

カワカマスについては、そのうんと前のページの、春の章に書かれていました。(この本は冬から始まり秋で終わります)

 死んだカワカマスが特大まな板の上にごろりと横たわっている。顔つきに凄みがある、強く美しい古代魚だ。殺した瞬間を思いだす。草の上でばたばた跳ねまわる彼は、疲労のうちにも懸命に抵抗していた。目には生気が横溢し、恐怖の色などみじんも見せない。アイルランドに生息する野生生物のなかでカワカマスは、ぼくも比較的ためらわず殺せる部類に属する。とはいえ、いやしくもほかの生き物 —— 特にこいつのように野生みにあふれた自由な生き物 —— の命を奪う行為は、食べる必要上いたしかたなくなされるべきことには変わりない。
 そんな文明人の感傷などもちあわせないカワカマスは、目に見えぬわが釣り糸の先で動くものを魚と勘ちがいして襲いかかった。致命的な判断ミス。エサにはありつけず、彼自身が餌食となるのだ。その点を心に留めつつ、冷たい岩の上に彼を押さえつけ、頭部を強打する。一度、二度、三度。命ある生き物にはけっして知りえぬ何事かを突然悟った覚者の色が、かっと見開かれたその目に浮かぶまで。
(春 より)

ねえねえこれって「クリックする人が暇なのだ」「欲深いから引っかかるのだ」「いいねを押せば相手もいいねを押してくれると思いたい人がいっぱいいるのだ」みたいな論理じゃない?
ページのあちこちをめくりながら、ツッコミながら読んでいるうちに、どんどん過去の葛藤が引き出されていく。
この引き出されかたは嫌じゃない。

 


動画を見たら本に掲載されている写真よりもおしゃれで、やっぱりセンスがいい。

 

 

美学のある人の文章は、だいたいおもしろいもの。

他人の思考のリズムに自分を委ねる読書が苦手な人には、「だからなにが言いたいの?」と言いたくなりそう。それも含めて、読者を試しにかかるような本。

「それにしても、なぜ偽善がこんなに評判が悪いのか、まったく理解に苦しむ。」と後記で語る著者のツッコミが好き。全部読むと、そのツッコミに納得できる。そういう本でした。