うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

堕落論 続堕落論  坂口安吾 著

昨年の後半は坂口安吾の小説をよく読みました。長い作品は一つもなく、どれも中編で一日で読み終えてしまうものもあるのですが、ままならぬ人の気持ちをよくコンパクトに書くもんだと毎回驚きます。
なんとなく「〇〇論」というのはむずかしそうな印象。つい避けてしまうのですが、坂口安吾の「〇〇論」は「〇〇について書いたどー!」くらいの投げかけと思って読んでもいい、そのくらい読みやすく書いてくれているのがわかってきたので、有名な「堕落論」に手を出してみました。


これは1946年、終戦の翌年に書かれています。とんでもない魅力にあふれた文章で、この作家が「堕落論」と「白痴」で一躍人気となったとは知っていたものの、想像以上にグイグイ来ます。惚れるな危険!
堕落論のラストはほんとうにすてきで、惚れるな危険!と注意書きを貼りたいほど。(←だいじなことなので二回言いました。コピペミスではありません)


戦時中の様子を伝える文章はこれまでいくつか読んできましたが、こんなにハートをつかまれる記述に出会ったことがありません。

 人間の一生ははかないものだが、又、然し、人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイの存在で、あの戦争の最中、東京の人達の大半は家をやかれ、壕にすみ、雨にぬれ、行きたくても行き場がないとこぼしていたが、そういう人もいたかも知れぬが、然し、あの生活に妙な落着と訣別しがたい愛情を感じだしていた人間も少くなかった筈で、雨にはぬれ、爆撃にはビクビクしながら、その毎日を結構たのしみはじめていたオプチミストが少くなかった。
(「続堕落論」より)

こんなカタカナづかいをするおじさんに、乙女もおばちゃんも惚れないわけがない。
人間というものはベラボーなオプチミストでトンチンカンなわけの分らぬオッチョコチョイ。はーい! はーーーい! それわたしです!!!
いまはごみ捨てに行く時にマスクを忘れると、まるで会社へ眉毛を描かずに出社した時のような感覚になるけれど、わたしそもそも、眉毛を描き忘れて出社する人間だったのよ!
「おはようございます。ん? もしかして体調が悪いですか?」と上司にエレベーターで言われて、トイレで眉毛の描き忘れに気づき、描いてデスクに戻って「いかがでしょうか? 元気になりました」と報告するほどのオッチョコチョイでオプチミストだったのよー! もー!!!

 


堕落論」と「続堕落論」では、戦争と天皇と日本国民のコントロール方法ついて著者なりの解釈が語られています。

 歴史という生き物の巨大さと同様に人間自体も驚くほど巨大だ。生きるという事は実に唯一の不思議である。六十七十の将軍達が切腹もせず轡(くつわ)を並べて法廷にひかれるなどとは終戦によって発見された壮観な人間図であり、日本は負け、そして武士道は亡びたが、堕落という真実の母胎によって始めて人間が誕生したのだ。
(「堕落論」より)

 昨年八月十五日、天皇の名によって終戦となり、天皇によって救われたと人々は言うけれども、日本歴史の証するところを見れば、常に天皇とはかかる非常の処理に対して日本歴史のあみだした独創的な作品であり、方策であり、奥の手であり、軍部はこの奥の手を本能的に知っており、我々国民又この奥の手を本能的に待ちかまえており、かくて軍部日本人合作の大詰の一幕が八月十五日となった。
 たえがたきを忍び、忍びがたきを忍んで、朕(ちん)の命令に服してくれという。すると国民は泣いて、外ならぬ陛下の命令だから、忍びがたいけれども忍んで負けよう、と言う。嘘をつけ! 嘘をつけ! 嘘をつけ!
(「続堕落論」より)

平成の天皇はご本人がとてもスマートな人間であることを淡々と見せ続けてその人物像が独創作品ではないことを示し、その後も政府との距離のとりかたはたぶん進化している。


国民の導き方に注目することの多い一年(もう二年目)を過ごす日々の中で、坂口安吾は希望をくれる。惚れるわー。もー。

 

堕落論

堕落論

続堕落論

続堕落論