うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

アミ 3度めの約束 ― 愛はすべてをこえて エンリケ・バリオス著 石原彰二(翻訳)

シリーズの三冊目をやっと読みました。登場人物が少しずつ増え、それぞれの事情とこだわりのなかにエゴがちらつく。
アミ(オフィル星の宇宙人)が主人公の少年ペドゥリートに向かって話す内容も苦悩の中毒性や死の解釈にまで及び、内省力もパワーアップしています。

ペドゥリートがアミのような存在に出会ったことで得た苦しい気持ちは、優越感が生み出す苦しみ。このシリーズは毎回、こういう要素を差し込んできます。

あれほど崇高なひとたちと知り合ったということが、いっぽうではぼくを傷つけた。だってそのときから、ぼくたちの仲間のちょっとした欠点を、ぼくは彼らじしんより先に、すぐ発見することができるようになったからだ。それは、ぼくのまわりのひとたちとオフィルのひとたちとを、どうしてもくらべてしまうからで、それがときに、ぼくの心を閉ざすことにもなった。こうやって、ぼくは情深いやさしいひととなるかわりに、反対のひとになった。それなのに、自分の欠点を発見するための、そうした能力は得られていない。それをアミが気づかせてくれた……だから最悪だった……。
(414ページ 第9章 シャンバラ より)

この内省のあとに、シルクというまるで坂口安吾のようなことをいうキャラクターがペドゥリートを励まします。

そのときに、自分を高めるために必要なものとして以下のことがリストアップされます。

よろこび、健康なユーモア、楽天主義、希望、責任、悪意のない魂、信念、許し、隣人へのたすけ、ほんものの愛

健康なユーモアが許しや隣人や愛よりも先にあるのがいいんですよね…。
三部作を読んでみて思ったのですが、このシリーズはキリスト教を東洋的に解釈するとこうなるというプロセスを物語にして広める、そんな内容。

 

わたしは人間の行為の選択について、その傾向を話すときに「魂」「レベル」「高い低い」という組み合わせをする表現にどうも抵抗があって、この物語はなんならそのオンパレード。
・・・なんだけど、この三冊目で主人公の少年が「崇高なひとたちと知り合ったけれど、自分は自分の欠点を発見するための能力を得られていない」と内省しているのを読んで、気がついたことがありました。

わたしは「魂」×「レベル」×「高い低い」という話をする人を理解するための心の土台が耕されていないために、不愉快と感じるのです。わたしには「崇高なひとたちと知り合った自分はその "ご縁" を得る力を持っていた」という自慢話に聞こえる。ラッキーだったとか運がよかったでは足りんのかい! さらにピュアな印象を盛りたいんかーい! と思ってしまうのです。

 

わたしは一時期、ヨガのコミュニティにどっぷり浸かってまるで自分がよい人間になったかのような錯覚を持つことに漠然とシラケを感じ、霞ヶ関に傍聴へ行っていた時期がありました。あれはまるで人間のダークサイドをないものにするかのように生きている人たちへの抵抗だったのだろうか。
わたしもあれこれ、あがいていたんだな…。そんな昔のことを思い出しました。