うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ジョーカー(映画)

話題の映画を観てきました。
物語の本筋や結末には触れないように書きますが、さまざまな場目・状況の連鎖に思うところの多い映画です。これから観る予定の人は「この場面でそんなことを感じたのか」というふうに読むほうがおもしろいと思うので、今日のところはここでブラウザを閉じてください。

 

 この映画の舞台は昔のNYに似た場所。でも起こっていることは現在の社会問題。中盤以降はいま香港で起こっているデモを想起したけれど、わたしは回数としてはそれと同じくらい「天才・たけしの元気が出るテレビ!!」などのかつてのテレビ番組を思い出しました。「テレビに出たい人を笑いものにする」という状況に対応するために何らかの感情を使った最初の記憶。これはジョークが題材の映画なんですね。

 

日本ではいま、その番組の中のダンス甲子園というコーナーで「メロリンQ~」と言っていた人が政党の代表になっていて、それはこの映画の中のジョーカー支持者に支持されそうな政党。メロリンQの人は政治家になったけれど、出演者はその後どんなふうに社会の中に溶け込んでいったのだろう。ジョーカーであるアーサーという人物と重なるところがあるような気がして心がざわつきました。
ほかにもわたしが子どもの頃から深く考えないことにしてきた、嘲笑を勢いで流していくコミュニケーションの記憶が呼び起こされたのだけど、ひとりの女性が地下鉄車内でエリート・ビジネスマンたちにからかわれている場面は、まるで80年代のとんねるずのような話し方を2000年以降も続けてきた営業職の男性たちの怖さを思い出すし、アカデミックな環境でのパワハラ・セクハラをネタにした笑いは冒頭から読むのに挫折している「文学部唯野教授」(筒井康隆著)の世界と似ている。アーサーだけがこの笑いを理解できていないという場面がとても印象に残ります。


親しみと嘲りの微妙な境界を読んで泳ぎきるには技術が必要で、それを理解できていないアーサーの生きかた描写がつらい。適応できていないアーサーだけがどこまでもピュアであるという、その現実がひたすらつらい。
アーサーのネタ帳にあった言葉の元の英語が知りたくなってネットで検索したら、こうありました。

 


 『 I hope my death makes more cents (sense) than my life 』

 


死ぬことを考えていればなんでもできてしまうという解釈を呼ぶとなるとそれはとても怖いことだけど、その怖さも実社会で現実化している。
わたしがはじめて見た "死ぬことを考えていればなんでもできてしまう人" は、「夢で逢えたら」というテレビ番組のコントに出てきた伊集院みどり。彼女がコントの中で言っていた(と記憶している)「わたし、嫌がらせのためなら死ねるわよ」というセリフに笑いながらゾッとしたのを記憶しています。みどりは貧乏ではなかったし、バブルの服装をしていから笑えたのだけど。

 

 

 なにがおもしろいのかわからない話で多くの人が笑っている

 

 

こういう精神状態にある人がコメディアンを目指す。頑張りかたがわからない世界で、この仕事が好きだと信じて食らいつく。
コメディに対する熱意と思い込みの力だけは自分のものだと思っていたアーサーが、それすらも自分の根っこから自然に育ったものではなかったということを知る、笑いへの執着のルーツを知ってしまう瞬間はあまりにも残酷で、でも物語としてはつじつまが合ってしまう。こんなふうにイメージの力を奪われたら、誰だって狂うんじゃないか。

 

イメージをポジティブな方向で使うことができているから、いまこうしていられている。「ジョーカー」はそんなことを再認識させられる映画で、心理的にはわたしが6年前に考えていたことを最悪の方向に振り切った事例として見せられた感じでした。

 

イメージの力について考えるとき、これからもこの映画を思い出すのだろうな。
昨夜、今年のハロウィンはジョーカーのメイクをした人が増えたりするのだろうかと思っていたら、そんなことはなくて安心しました。

 

<関連追記>