年始は昨年の旅行記でした。事実上ここからが2019年の気分です。そんなこんなで、振り返りから。
昨年はほんとうに歳をとることができたと思える一年で、こんなふうに年齢を重ねていきたいというイメージができるようになって、以前よりも自分と向き合えたように思います。
わたしはここ数年日常的にある種の態度を意識的に抑えてはぐらかしてきたのですが、もうそれも解除していいのかなと思えたのが2018年の後半でした。"理解者=味方" ではないから、あなたの設定する敵あるいは仮想敵の攻撃には加担できないのですよという意志を伝えないと身が持たないという感覚を身体的に具えることができました。時と場合によってそういうニーズがあることは理解するけれど、そのための武器を取り扱う気はないと言える店主になれたような。その意志表明をする瞬間の小さな痛みに慣れることができた一年でした。
学んだことは他人をコントロールするために使うものではなく、
自分をコントロールするために使うもの。
思想は乗っかるものではなく、自分で立ち上げるもの。
わたしは「イタいヨーギーになりたくない」という恐怖感がヨガを始めた頃からあって、「痛い」というイメージも雑に持っていました。その雑な恐怖感が、かえってその種の感情を引き寄せてしまう。自己の内面・他者との関係において、そんな出会いと別れを積み重ねてきました。恐怖感を振り払う思考を整理できないまま過ごしてきました。そういう心の状態から以前よりも大きく距離をとれるようになった気がします。
決めつけてほしいという願いから発せられる問いかけや質問は慎重に扱わなければならない。
決めつけてくれないといって落胆されても、それは慎重に扱うべき問い。
自分がこうあってほしいという念慮を補強しようと思って扉を開ければ、インド思想の世界はまるであらゆるニーズを満たす専門店が集まったショッピングセンター。これをありがたがってよいのか? 罠ではないかと立ち止まる。認知は妄想で変換することができてしまうから。わたしはこの "ためらいの感覚" を大切にしていて、そこに自分がある。
わたし自身、どんな人と言葉を交わしたいのか
質問を受けている瞬間に理想の回答を誘導されていると感じることは日常でもよくあるけれど(たとえばマッサージ屋さんや美容室などでも)、それを感じたわたしのなかで立ち上がる思いを雑に扱うと人生がなげやりになってしまう。自分自身が楽しくあるためには、交わりたい対象はどんな意識か、どんな意志か、それを日々自分に問うておくことがグッド・コンディションへの近道なんですよね。
好き嫌いをすることへの葛藤から逃げるためにさっとヨガを持ち出してフタをしても、問題の火種は消えていないし、時間をかけないと消えない。求めるものが「グッドなサムシング」から「グッド・コンディション」に変化したことを確認した、2018年はそんな年でした。
急いで仕上げようとしなくても細胞は着実に入れ替わっているから、習慣を整えていけばよい。本では何度も読んでいたけれど、文字で知るのと年月をかけて身体を使って知るのはだいぶちがう。
ここ数年の流れから、いまはそんな気分で日々を過ごしています。意識や心がけを他人と共有できる時間は、"いま" をありありと生きている実感につながり、とてもありがたいことと感じています。
と、たまにまじめに書くならばこんな感じですが、次回からまた平常運用(=ややふまじめ)になります。本年もどうぞよろしくお願いします。