うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

内観とことばと文章から思うこと


ここ半年のうちに、2人の友人から近ごろブログの文章の印象が違うと言われました。それはいずれも、以前よりリアルなわたしが迫りくる感じというニュアンス。
昨年くらいから、意識的に心の中身を「出す」ことへのブレーキを踏まないように練習していたのが、少しずつ癖づいてきたようです。


自分のなかで起こる "身体のパーツ同士の会話" は、以前からとくに考えなくても出てきて、なのでヨガ講師としてしゃべりながら動く機会を持たせてもらえているのだと思うのですが、心のほうは一生こういう感じにはならないものと想像していました。
自分で自分の考えていることなんてわからないというのが普通だと思っていたし、そこを掘り下げていくことは、ひとりではできないものと思っていました。この "自分で自分の深部を掘っていく感じ" は、わりと明確に過去と現在の違いを喩えることができます。


小学生の頃、プールの中におはじきや碁石がばらまかれた状態で、それを潜って獲ってくる。そんな授業かゲームがありました。そのときに、足でわちゃわちゃと水をかき混ぜておはじきを浮かせて手でかき集める。数多く獲ってくればいいのだというやり方。それが、これまでのやり方。
いまは、お腹がつくほどプールの底まで潜ってひとつひとつ拾うように集める、そういうことをする泳力がついたかのような、感情の筋肉痛があります。


言葉を選ぶ作業はこの感じと似ていて、
足でわちゃわちゃと水をかき混ぜて獲ってきたもので、他人とつながっていた気になっていたなんて



 ずるかったなぁ、自分。浅かったなぁ、自分。



と、いまは自分のさまざまなアウトプットに対して、そう思いかえすことがあります。
ただ過去の「わちゃわちゃ」を経ないと、こうならない。浅いなぁ薄いなぁセコいなぁ意識高い系かよ痛いなぁ。そんな自分の中身を見ることを恥じて、そういう自分をなかったことにしてしまったらそこまで。
実生活ではここに背を向けたまま年齢を重ねていく人をたくさん見るし、そういう人のほうが多いのが現実ではないかと思います。


先日、インターネットで元SMAPの人たちが試みたいくつかの映像のアーカイブを見ていたら、そこには運動の後のような笑顔があって、大人のすがすがしさというのはこういうことであるように思いました。自分で主体的に選び取る意志のプロセスには、いつだって恥ずかしさがつきもの。葛藤をした人たちが話しているしぐさや表情から、しんどい潜水をしてきた様子がかいま見えて、筋肉痛が共鳴しました。
「あのときは、あんな事情があった」と被害者風情で暴露するでもなく、機微そっちのけの武勇伝・苦労話にするでもなく、とにかく自分で選択するいまに向き合う姿勢。
自分のことを、自分で記録する。そういう時代のなかで生きているのだなと、このごろしみじみ感じます。