これはとても現実的なシンデレラ。
O・ヘンリーのような「最終的にはいい感じで希望がある」のがデフォルトじゃなきゃいやだー! なんて人しかいなくなった世の中があるとしたら、たぶんそこにはギャグもないのではないか。うーん、困った。やさしいのはありがたいけれど、つまらないとたぶん狂う。
夢のある話の巧みさに怖さも感じるわたしにとって、この短編はスワミ・ヴィヴェーカーナンダの説法のようで*1、後味は悪くても背筋が伸びる。もっと厳密にいうと、背骨が真上に積まれていく感じがする。
その中間には椎間板がある。
椎間板に頼りすぎない人間の身体の立てかたを考えるのがしんどいように、暗黙の善良さに頼らない心の立て方を考えるのは、しんどい。表面上マイルドで品行方正さをどんどん要求される社会では、考えるきっかけすら得ずらい。でもそういうきっかけを、くれるんだよなぁ。モーパッサン。
「自身のエゴをなかったことにせずに、確認したか」
このように問うてくれてる物語。
自身のエゴと一時だけでも戯れたいという、そういう気持ちにもっと正直になれていたら。
わたしは日常でそんなことを思ったりするので、性善説に溺れたい気持ちに対して「それ、たまにならいいけど、常習化するとあとが大変だぞ」とツンツンしてくれる、こういう話があったほうがいい。
そしてさまざまな感想を呼ぶラスト。わたしは「こんなときでもほんとうのことを口にする必要はあるのか」ということを考えました。自分の浅はかさに気づかないからこそ頑張れたということが、自分にはこれまでたくさんあったように思うから。
「あのときほんとうのことを言われていたら、どうだったかな。ま、どっちでもいいや」と、すべてに対してそんなふうに考えられるようになりたい。そういう気持ちが自分にあることに気がついて、不思議なエネルギーの存在を見たような、そんな気持ち。
月の裏側には太陽があって、ゆえに月が丸く見えているのだと、モーパッサンの作る話には、そういうものの見かたを教えてくれるところがあるように思います。