うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ポトスライムの舟 津村記久子 著


ガサガサガサッと感情を揺さぶってくるような強さはまったくないのに、「ある」「あー、ある」「あるなぁ」「あこれあるわ…」「あったー、これ」という小さな弾がトトトトトトトとずっと撃ち続けられるような感じで、グイグイではなく、気がつけばジリジリいっきに読んでいた。
ふたつの物語のなかで展開される状況は、わたしたちの世代(就職氷河期とか超氷河期とか)が仕事を得ていく段階から身に着けてしまっている戦略的不感症ともいえるなにかを言語化したもの。これらの物語の登場人物の感情は、いまとなってはなつかしいと感じるものもあれば、いまだにずっと培養し続けているものもある。


「ポトスライムの舟」に、自分の行動エリアまで友人を呼んで自分の話ばかり聞かせたがる人が出てくる。
この人物への友人たちの態度のすべてが「ああ、あるなぁ」という対応で、結局みんな、どこかつらい。こういう全体感が沁みてくるまでに時間がゆっくりしているのがいい。思わせぶりなところが少なくて、読んでいるわたしの負担にならない。
読んでいる人に負担をかけてまで、ほのめかさない、予告しない。そういう種類の気づかいをついしてしまう人が書く小説という感じがした。



 こういう種類の罪悪感て、なんなんだろうね…。



つい先日、ヨガを一緒に練習した人と「淡い罪悪感」の話をした。それは感じなくてもいいはずの罪悪感でもあって、ほんと、なんなんだろこれ。という感情。


自分を大切にする、というのはすごくむずかしいことだと思う。
自分でもその発動に気づきながら、ついしばらく走ってしまう奴隷マインドというエンジンの切り方は、「自分を大切にする」とか「逃げるという選択」なんて言葉だけでは足りないし、経緯はひとりひとり、とても複雑なもの。
「ポトスライムの舟」は、具体的になんでもは話さなくても、話せるときにだけ話して、助けられる範囲で助ける。そういう人間関係が印象的。
「十二月の窓辺」は、自我を確認することに疲れて、つい「そういうこと」にしてしまいたくなる積極的妄想をするときの心の動きが、ものすごくリアル。
得体の知れない罪悪感との付き合いかたに何歳になっても慣れず、それを忘れた瞬間に妙に大胆になってしまったり。これって躁状態? と思うほど自分のグリップ感覚がときどき信用できなくなる。そんなわたしのような、あなたにおすすめです。