うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

私たちが姉妹だったころ カレン・ジョイ・ファウラー 著 / 矢倉尚子 訳


ぜひ予備知識なしに、1ページ目から読んでみてください。できるだけ事前情報を入れずに。(以下は読んでも大丈夫なように書いています)
筆者の吐露を追っているのは自分なのに、自分の過去のなかにあるエゴや悲しみをズルズルと引き出されていくような、「まだここは意図的に話していない」ということまでが計算された状態で語られていく、濃密な構成。こんな厚い本、読めるかな…と少しチャレンジだったのだけど、途中から沼にはまったかのよう。毎日続きが気になってしかたがありませんでした。
自が他へ執着するときに起こる前提条件って、こんなにいろいろ、あるんだよな… 


 あなたのこころの池、
 水を抜いてみたら、こんなにいろんな泥や思い出が残ったままになってたよ


という景色を見せられたような。これは、心理サスペンスなのか。
わたしは「微笑ましい光景」を見ると一瞬こわさがチラついたりして、それは微笑ましいの「ましい」の成分に反応するちょっとしたアレルギーのようなもの。
この家族のなかの妹は、沈黙に絶対の価値を置く。これは、夏目漱石の「行人」に登場する直さんのようなスタンス。なにを言っても自分優位に解釈する人の前では、とにかく沈黙をつらぬくに限る。こうなるまでのプロセスが、こんな話があるか! という展開で描かれる。そしてそれが、たいへんアメリカ的。
アメリカ人がアメリカをアメリカ的と語る。こういうおもしろさをいままでに経験したことがなかったので、とても感想を書くのがむずかしい。

ちょっと、脳内語りにアメリカの映画やドラマが軽く引用されるのもおもしろい。

 またやってしまった。どうして黙っていられないのだろう。
 なぜなら、これ以上『カサブランカ』な状況がどこにある?


テーマは確実に重いのに、いまどきの若者の口調で進行する。
「実際に起こったこと」をレス・イプサ・ロキタというとか、初めて知ることも多いのだけど、わたしはこの小説の中に出てくる日本の詩の日本語訳がすごく気に入って、手帳にメモした。一瞬だけ登場する、昆虫の詩。もとの詩はすごく有名でわたしも知っていたのだけど、いったん英語になったものが和訳されて差し込まれているタイミングが、絶妙なのです。


自分の中にはいろんな野生があって、それが慈悲という野生であっても、それが飛び出そうとするのを抑えると苦しくなる。
この小説のなかの人物は、それを抑えるときに、こんなしぐさをします。

 私は自分の手の上にすわった。

わたしもなんとなく椅子とお尻の間に手をはさんだりすることがあって、特に意味のない動きではあるのだけど、この小説のストーリーの流れで読むと、こういう些細な描写がせつない。苦しくてせつないのに軽快で、ほんとうにどうしてくれるのこれ。という小説です。
「偏見のない観察者」など、存在するものだろうか。この問いは第2章6の末尾にある問いなのだけど、これがそのままこの小説の主題かもしれない。読み終えてから、ずっとそんなことを考えています。これは名作として語られそうな小説だと思うのだけど、これから流行るのかな。