うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

君の名は。(映画)


日常の中に奇跡を求めるこの感じが、なんともいまふう。
あとからジワジワくる。エモい。エモすぎるファンタジー。なのに重い。神道由来のスピリチュアルまでついてくる。(いまヤングは、エモーショナルなことをエモいといいますよ。野球とは関係なく)


小さな出来事があとからポツッ、ポツッ、と短期記憶の中から浮かび上がってくる。
「ああ、ああいう先輩。あれは先輩という存在の象徴」「ああ、ああいうクレーマー。あれはクレーマーという存在の象徴」というように。
普遍的な記憶からの共感かと思いきや、実は刷り込まれていたのかもしれない概念で共感する「あこがれ」や「嫌なできごと」の配分が絶妙。
映画が終わった後、隣の席の女の子が「え〜。すごくい〜い」と目がハートになっていそうな声で感動の声をあげていた。

 



  そうなのか! そう感じるのか!





と思いながら…
同時にわたしは、この日本語の歌詞を聴きながら歌が終わるまで付き合わされる状況が「東京ラブストーリー」が流行っているときにあの曲がまったくピンとこなかったときの感じと似ているわ、とデジャヴ。でもそれは歌手の涼やかな声のトーンが似ているから誘発されるもの? と、自分の視覚と聴覚の紐づけを確認しようとしてみたり。




  いまこういうのが、流行るのね!




ということをズッシリ認識するこの感覚が、ナウなエンタメ映画体験。
ここまで音楽に負わせる比重をもたせるのってかなりの冒険だと思うのだけど、歌も含めたこういうファンタジック諦念終末観、みたいなのがいいんだろうなぁ。
この世はくたびれているかもしれないけれど、僕らの小さな奇跡は信じるのだ。そうだよ! くたびれた大人の言うことなどスルーなのだ。


東京と山奥の絵のギャップでいっきに連れて行かれはしたけれど、自己啓発書が並ぶ本屋にいる気分とも似た感覚。
これは癒やしなのか救済なのか現実逃避なのかわからないけど、こういう物語がウケているうちはおかしな宗教など流行らないだろうという安心感を得て帰ってきました。