うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

野分(のわき) 夏目漱石 著


小説としては短めで、講演録の「道楽と職業」「文芸と道徳」「中味と形式」に似た話を、道也先生という人物が語ります。
物語は、今でいうと「イタい」とか「中二病」といわれてしまいそうな高柳君の行動を中心に進みます。小説の形式をとりながら「こういうことを言うと、エゴの強い人はこんな感覚を抱くだろう。それでもなお行動を起さない人というのは、結局こんなところだろう」という、孫悟空をもてあそぶ観世音菩薩のようなスタンスが感じられます。
道也先生は「三四郎」でいえば広田先生なのだろうけど、キャラクターが強すぎないのがいい。そして、道也先生の女性論は、かなり鋭い!

女は装飾をもって生れ、装飾をもって死ぬ。多数の女はわが運命を支配する恋さえも装飾視して憚からぬものだ。恋が装飾ならば恋の本尊たる愛人は無論装飾品である。否、自己自身すら装飾品をもって甘んずるのみならず、装飾品をもって自己を目してくれぬ人を評して馬鹿と云う。しかし多数の女はしかく人世を観ずるにもかかわらず、しかく観ずるとはけっして思わない。ただ自己の周囲を纏綿(てんめん)する事物や人間がこの装飾用の目的に叶わぬを発見するとき、何となく不愉快を受ける。不愉快を受けると云うのに周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時、わが眼に映ずる不愉快を左右前後に反射して、これでも改めぬかと云う。ついにはこれでもか、これでもかと念入りの不愉快を反射する。

ほんとうに、そのとおり! 女社会では「周囲の事物人間が依然として旧態をあらためぬ時」に備えて、不幸ネタのひとつや二つ、常に用意しておかなきゃいけないんだから(笑)。



この本では道也先生が「解脱法」を語ってくれるのですが、以下は今でもそのまま通じそう。

常人の解脱法は拘泥を免かるるのではない、拘泥せねばならぬような苦しい地位に身を置くのを避けるのである。人の視聴を惹くの結果、われより苦痛が反射せぬようにと始めから用心するのである。したがって始めより流俗に媚びて一世に附和する心底がなければ成功せぬ。江戸風な町人はこの解脱法を心得ている。芸妓通客はこの解脱法を心得ている。西洋のいわゆる紳士ゼントルマンはもっともよくこの解脱法を心得たものである。

くすぶってたら解脱できんもんね、とでも言うような「この解脱法を心得る」という語調がおもしろい。



わたしはこの物語の中では、お金持ち側の中野君が見る高柳君への目線に共感するところが多くありました。
そして、

人間の交際にはいつでも「これは」が略される。略された「これは」が重なると、喧嘩なしの絶交となる。

場にそぐわない服装で友人が結婚式に来る場面の描写。この表現が出てくる前後のシーンは、ズシリとくる。



わたしはふれくされて開き直っている人に苛立ちを感じることがあるので、中野君がわたしの思いを代弁してくれていると感じるところが何箇所かありました。
高柳君とも重なる気持ちがたくさんあったけど、「できない理由を探す人」に見えるその姿や他人の意志に便乗していく様子は、この人が現代に生まれていたら、カルト教団に入信してそう……という人に見える。
自分のコンディションのいいとき・悪いときのマインドを、映し鏡で繰り返し見せられているような気分になる小説でした。


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野分
野分
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(2012-09-27)


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