うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

知的生き方教室 中原昌也 著


描かれている「気分」の種類と数がとにかく多く、日常的絶望感がクセになる。満員電車の描写のページが文字でびっしり埋められていたり、言葉の刺激だけでない独特の世界。
何かのモードを共有している人たち特有のボキャブラリーや言い回しがたくさん出てくるのだけど、爆発的にうまい流れがあって、こんなこと、文章でできるんだなぁとおどろいた。
「オリンピック・ホロコースト」という章のなかに、出版業界のムードからコンサルティング業界のモードへ調子が移行する文章があった。

出版社の経営陣は、彼の持っていた鉱脈を掘り当てることができなかった。何故、そうなってしまったのかは推してしるべし。日本文学の死命を制する瞬間を、彼らがやすやすと見逃してイニシアチブを取れなかったのはたしかであるが、それについては論を俟たない。
 こうして、私は編集者たちの無能さに先駆けて、次の時代の文学のために布石を打っているのだ、と云える。
 いまさら文学観の再定義など、しょせんマイナーチェンジでしかあり得ないであろうが、存続させるためのブラッシュアップはマストである。
 先ず最初にプライオリティを明確にすること。
 この業界の中でのポジショニングを、様々な人々の意見からコンセンサスを得るべくイシューをまとめる必然性がある。
(以後このトーンで続く)

子供のころに、クレイジーキャッツの「ハイそれまでヨ」をテレビで観たときくらいの衝撃。出版社とIT企業の板ばさみの仕事をしていたことがあるので、ここはめちゃくちゃおもしろかった。




「客筋の良し悪し」や「人間環境」のようなものを語る表現も多くて、

 だが、そんな他人の意見は所詮余計なお世話に過ぎず、聞かなかったことにして無視するフリをせざるを得ない。しかも、その程度の進言など、まったく必要としていないのを承知で、わざわざ私自身の問題に介入しようとする行為自体が疎ましい。
(299ページ「遥かなる大地ガーナから」)


 そんな親元で育ったせいで、いままで私は出会ってきた人間たちに対して出会い頭から「この人は恐らくこういう人なんじゃないか」みたいな判断を下すのは、ひとまずおいて置こうとしてフランクに接してきたものだった。
 だが、その結果ひどく自分勝手で厄介な人間ばかりがまわりにいるようになった。そういった連中は、遠慮という言葉を知らないかのように、こちらが聞いても何の感想も返答もないような取り留めのない話を延々と披露し、私を辟易とさせる。
 別段、自分は優しい性格でも何でもないのに、そういう人間ばかりが私の周りに沢山寄ってくる。
(115ページ「野蛮な暴力の精たち」)

こういうところにデトックス感がある。




じわーっとくるところもある。

 アポロに乗った宇宙飛行士は「地球は青かった」と、語ったといわれるが、それくらいに腹の立つ、思い上がった発言はないだろう。ガガーリンとかいう奴の、自分勝手な人間中心主義に私は小説という形で抗議し続けたいと思う。
 私はガガーリンよりも、世界そのものが時折気まぐれに見せる美しさの、無責任さに怒りを覚える。特に夕焼け空が嫌いで我慢ならない。
(282ページ「オリンピック・ホロコースト」)

こういうのがたまに出てくる。一度スルーしかけて読み直すような、二度見みたいなことも発生する。




バガヴァッド・ギーターのなかに静かに流れる性悪説に似た世界もあった。

 そもそも成長というものを、私は信じていない。
 愚かな人間は、年相応の愚かさに変化するだけ。
 私は成人というものを信じない……図々しさの質が変わって、寧ろ、余計に図々しくなるだけだ。成人が聖人になり得ぬのなら、人間はより下衆な畜生以下に近づくだけである。
(310ページ「壁のしみ」)

というような表現もある。でも鼓舞しない。ここからおかしな夢を見ているような展開になっていく。


今の時代のことを書いているのに、何世代か前の自分の苛立ちが溶解していくような、不思議な感覚。
小説だけど物語を読んだという感じではなく、文字に乗せてヘンなところに連れていかれたことが読書体験になるような本でした。