うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

自分に自分をエクスキューズしない

友人と話して感じた断片のまとめ。
自分の状況やポリシーを、小さな変更まで含めて、そんなに人に示す必要ないんじゃない? と思うことがある。
理由を説明しないと「やるやる詐欺」みたいになってしまうと感じることは、日常とその周囲で関わる人間関係のありかたとして、ちょっとしんどい。理由を説明しようがしまいが、関係が切れるときは切れる。


わたしはここ数年でさまざまな状況が変わったけれど、いまの生活のおおかたの状況を知っている友人はふたりしかいません。ヨガのクラスでコンスタントに会う人のほうが、友人知人よりもわたしの「コンディション」をよく知っている。



 「ステイタス」よりも「コンディション」
  いま目の前にいる、あなたを見る



これは、自分に対しても人に対しても、いつのまにか心がけるようになったこと。
以前、ヨガのアーサナのクラスで「みなさんがどんな生活をしているとか、どういう人だとか、どうでもいいです。わたしはいま、あなたの身体にしか興味がありません」と言ったら、自身もヨガインストラクターをしている人から「あの言い切りには驚いた」といわれましたが、「あなたに興味がない」と言っているわけではない。これはすべての人間関係にいえることだと思うけど



  あなたの状況に興味を持つことが、
  あなたを支配することにならないように



わたしは、特にヨガのクラスは心と一体化した身体を開いていく場にしたいので、こういう「絆と支配の半面性」をあたりまえのこととして意識します。「愛と絆」が好きな人には、わたしはたいへん淡白なコミュニケーションをするように見えるかもしれませんが、会う機会が増えればその人に対する記憶は蓄積します。そのときには、必ず身体の動かしかたの傾向を紐付けています。というとヘンタイっぽいけど、自動的にやっているからたぶんヘンタイです。
なんて、わたしのヘンタイ話はさておき。



「やりたいこと、前向きなことは口にしたほうがいい」とよく自己啓発本にあるけど、あれは主体的に動けない人をますます煙に巻く黒魔術じゃないかな、と思うことがあります。うまくいったケースって統計で正確に取れないし、「自分は運のいい人間だ」「チャンスをつかめた人間だ」と言いたい人が表に出したものが物理的に目に見えているだけ、耳に入っているだけじゃないかな。
もし「運」が数えられるものと仮定してその母数を考えると「自分は運を逃した」「チャンスを逃した」ってほとんど人に言わないし、「逃したもの」そのものに気づかずスルーしていることもあり、そもそもカウントされていない母数が多いはず。



わたしは、「やりたいことは、口にした方がいい」という考え方は、プラクティカルではないのでヨーガの対極にあると考えています。「それは "寂しさ" に起因するものでは?」と思うことも多い。どちらかというと、精度を上げていこうと言うよりも、母数を増やしていこうという発想だから。「やりたいことは、具体的に段取りを推敲した上で口にした方がいい」というなら、すごくわかるのだけど。
ヨーガは哲学でもありながら「技術」でもあるので、わたしはそこが最大の継続メリットだと思っています。それは母数を把握して、打率を計算して、打率の高さを技術として認識し、再現性を高めていく。再現できないときも、近い結果を出すほかの提案ができる。それをしたうえで、「見返りを求めない」「カルマ・ヨーガの精神」があるほうが、長く続けられるのでよいと思っています。
わたしはよく「黙っていることで、人に疑われている気がするというのは、どういう心のメカニズムだろう」ということを考えます。それが己の心の敵であり、友だと。バガヴァッド・ギーターの6章5節。もしくはヒクソン・グレイシーの「心との戦い方」。


こうしたいという意志は、具体的にこころの中で唱えましょう。
これをサンスクリット語で、サンカルパといいます。