うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「キモさ」の解剖室 春日武彦 著


知人がとても微妙な感想を述べていたので、気になって読んでみました。
著者さんのさまざまな「キモい」と思った経験が語られるのですが、そのなかのひとつにあった「心のブレーキの甘さがキモいのではないか」という部分にはげしくうなずいた。
わたしは平日に気が向くと傍聴へ行きます(最近はもう感想も書きませんが)。おもに詐欺やわいせつ罪案件を傍聴するのですが、男性のわいせつ罪では「女性たちによる "キモい" と叫ばれるコメント」が紹介されることがある。(参考)わたしはそのやりかたのほうにも若干キモさを感じるのですが、どんなに女性たちが "キモいキモい" と叫んでも、罪のほうを分解すると「心のブレーキの甘さ」でしかなく、日常でもそれを垣間見ることはよくあります。


こんなふうに、「キモい」から発動するものには哲学的な問いが多い。
ということを、この本では少年少女向けに語ろうとしている。

<19ページ イントロダクション より>
ごく当たり前の感性の持ち主なら、日常生活においてキモさを感じることがあって当然です。キモいと口に出すことは他人を傷つけかねないが、キモいと感じることは人間として当然でしょう。多少こじつけて申せば、キモさを感じることは、自分が住むこの世界の不可解さに対しての謙虚さに通じている筈です。だからキモいと感じたらそれを悪口やイジメの口実にするのではなく、せめて自分なりにその気分の原因を考えてみたり想像してみるべきだと思うのです。

ね。



<36ページ 生きること=キモさを発散すること より>
 読者のみなさんがわたしの年齢になるまでにはまだ何十年とあることでしょうが、歳をとってきますと、自分の経験や思い出を語っているだけのつもりなのにいつしか自慢話みたいになっていることが珍しくありません。聞かされているほうは、ウザいとか鬱陶しいというよりも、きっとキモいと感じているんだろうなと思えて冷汗が滲んできます。生きることとキモさを発散することは同じでないだろうか、などと暗く考えたくなることすらありますね。

わたしも同じことを感じています。




埼京線で起きた人身事故を見ようと身を乗り出す人々を「血に飢えていた」「まるでゾンビの群れ」と語る部分で

<132ページ 鈍感さとキモさ より>
 人はそれぞれ微妙に違ったことを感じたり考えたりするものだとわたしは思っています。でも残忍なことや意地悪なこと、狡さや卑怯さ、嫉妬や恨みという低劣な側面においては、人間はおおむね心模様が一致するらしいと経験的に思っています。そのように普遍的な低劣さを心の奥に押さえ込むのが、まっとうな人間のありようであるとも思っています。

こういうプロセスで宗教は生まれるのだけど、ここに立ち返らずに「性善説であってほしい世の中」だけを追いかけても、揺り戻しで疲弊するだけ。


わたしは、「事前にエクスキューズがないと恐怖を感じる人」となるべく関わらないようにするというのが、世の中をたのしく渡っていくコツではないかと思う。「キモい」は、知と絡み合うと「キモきもちいい」という世界に変わったりもする。
わたしは20代の前半に江戸川乱歩の小説にドはまりしていたのだけど、はじめて「読者諸君」と語りかけられたときに「キモい!」が発動し、衝撃を受けた。その後、読みなれていくうちにいつしかそれが「キモきもちいい」に変わり、「奴隷」になっている自分に気がついた。


 「キモい」が発動したら、学びのチャンス!


「人に迷惑をかけてはいけません」というのは、すごくむずかしいこと。迷惑は相手の中で発動するから。
この本は、著者の先生の江戸川乱歩的なキモさも含めてそういうことを提示している。実験として、ちょっとおもしろい試みの本だと思いました。