うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

上機嫌の作法 齋藤孝 著


2005年の本。この本は読み始めの時点で「なにか具体的な苛立ちをきっかけに書かれたのではないか」と感じました。読み進めたら、後のほうにこんなことが書かれていました。

 実は私自身は、自分が不機嫌でいたことによる社会的な損害を山ほど被っています。不機嫌そうにしていると、だいたい周りの人は存在をバカにされている、敵意を持っているというふうに受け取ります。無視されたと受け止める人もいます。不機嫌である理由はいろいろで、単に眠かっただけということもあります。
(「気分に呑み込まれている人は、不機嫌に陥りやすい」より)



 かつて私も、不機嫌沼にどっぷりとつかっていた。そのときは、運も悪かった。人に疎まれ、意地悪もされた。
(「あとがき」より)

きっかけには、共感。
でも不機嫌も感情の一つなので、だからといって100%白く塗れというのはちょっと窮屈かな。でも薄いグレーくらいまでにはもっていきたい。「ニコニコしたいけど、悲しいことがあってできない」とか「賛同したいけど、あからさまにはできない」というときに、相手に最低限「敵意はないんです」とうことを伝えられればいい、くらいで許してほしいな。



ニコニコしていて穏やかという状態は、目指すほどの上機嫌ではありません。私たちが目指す「知性のある上機嫌さ」は、ひねりの利いた冗談や、当意即妙な返答を出し、相手とコミュニケーションするというものです。
(「達観」と「不動心」機嫌をコントロールした人たち より)

こういう、プラクティカルな領域にあるのか神聖な領域にあるのかが微妙なものを「技法」として扱うことってできるんだろうか。ちょっとハードルが高い気がした。


でも

 自慢と自画自賛を区別できないと、対人関係で謙遜するしかしようがない、というところに陥りやすい。ニーチェの忌み嫌う隣人愛の世界。お互いに、自分を低く低く置き、自己髭をしていれば安全だ、嫌われないと考える。しかし、そこに埋没していると、自分も社会も沈滞していくのです。
(「自画自賛力」は、正しい自己評価力 より)

ここで言いたいことはすごくよくわかる。


わたしの感覚では、怒りや悲しみの感情も神にもらったもの。それを悪魔とするほうが、最終的には苦しいことのような気がします。マイナスの感情を自己の外に遠ざけることは「悪魔祓い」に似ているし、自己を悪魔だと思うことは何よりもつらい。いまわたしのなかにある白・黒・グレーの配分を見て、できるだけ白に近づけていくくらいの努力目標レベルからはじめたい。
言いたいことも言っていることもわかるところがあるし、野口整体からアレクサンダー・テクニークまで、わたしの大好きな題材をたくさん扱っているけれど、「人はニコニコできないこともあるよね。せめてアルカイック・スマイルで乗り切れ!」くらいの落としどころで勘弁してほしいです。


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