うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「いいね!」時代の繋がり ― Webで心は充たせるか? 熊代亨 著(Kindle版)


「若作りうつ」社会』がおもしろかったのでこちらも読んでみました。この本はKindle版のみのようです。
先日、母親業とヨガインストラクターを兼業する40代前半の友人が『「若作りうつ」社会』を読んで、「たしかに、と思うことばかりだった。わたしにはロールモデルがないんだよ。ちょっと気分が落ち着いた」と言っていた。
彼女は「ねえ、うちこちゃん、わたし自分でメール添付で送ったワードのファイルをプリントしたいのに、開けないの」「ああ、それはね、ショートカットといって、お弁当箱の中身を入れずに箱だけ持って来ちゃったのと同じ状態なんだよぉ。おかず入りのやつがもういっこ、奥のほうにあってね……(以下略)」というデジタル・リテラシーの人。彼女にはこっちの『「いいね!」時代の繋がり』はちょっとむずかしいかも。わたしには、こっちの方が事例からの分解がリアルで興味深かったです。

<人は最悪の精神状態で最悪のインターネットをやってしまう より>
 だから、私やあなたがネットで炎上してしまうか否かを考える際には、自分のベストコンディションを前提条件とすべきではなく、最低最悪のコンディションを想定すべきです。

最近思うのですが、コンディションの反映ポイントはコンテンツの倫理観だけじゃない気がします。長文(本)を読まない人が多いのに、ネットの長文全体に流れるその人の文章の癖ににじむトーンやメンタルの強さ・弱さみたいなものだけは読める人がいるので、だからこそ自己の精神コンディション把握が重要だと思う。あとは、やっぱりユーモアかな。



<ネットという名の感情の網 より>
是非はさておき、普通の人たちがインターネットを介して摂取しているのは、安全よりも安心、考察よりも「いいね!」、頭が良くなるような読み物よりも気分が良くなるような読み物なのですから。
 Web2.0論をはじめとするギークたちの理想論は、「テクノロジーを見て人を見ず」といいますか、人間がプリミティブな心理的欲求に突き動かされているという大前提を見逃していました。そういう、ドロッとしてままならない人間から目を背けたくて潔癖な未来を夢想したのか、はしたなくて愚かなインターネットの世界を知らずに育ったお坊ちゃまだったのか……どちらにしても、Web2.0論なるものが、テクノロジーの冷静さと自分自身とを同一視するのに最適なコンテンツだったことは確かです。Web2.0論を称揚した人々の心性も、案外、一般的なネットユーザーにありがちな「見たいものしか見たくない」心性と五十歩百歩だったのかもしれません。

Web2.0の頃は「選ばれた戦士たち」のようなホモソーシャル的な気持ちよさだったのが、いまは「すごぉ〜い」の数がものをいう気持ちよさに変わっている。後者の方が社会性がある気がするところが、なんとなくおもしろい。市場の成熟って、よりナマナマしくなる過程を経るんだなぁ。車と似てる。



<「自己愛を充たす」ってどういうこと? より>
 昭和以前の精神史においては、【イエや地域の一体感や繋がりが過剰で、そこから離れたい・拘束感を緩めたい】が大きなテーマだったのに対し、平成以降は【一体感や繋がりが過小ななかで、どうやってそれを獲得していくのか】が大きなテーマになってきている ── という風に私は理解しています。

ここは切実にそう感じる。わたしは父親の歩行訓練を一緒にやるようになった頃、近所に顔見知りの人がたくさんできて、かなり精神的に安定した。そういうものかと思って、すごく自分自身の心の変化に驚いたことがある。



<"キャラ萌え" 化するコミュニケーション より>
 他人との相違点を意識しあいながら許容・共存しあうのではなく、自分の思い入れそのままにタイムラインを眺め続ける営みは、従来的な意味での "対話" とはかけ離れた何かです。

冒頭の彼女のお子さん(中学生)がLINEで苦労している話を聞いていると、まだこの頃はよかったと思うくらいだなぁ。数ヶ月単位で状況が変わっている気がする。



<事例2 考察 より>
普段褒められなれていない人に大量の肯定的リアクションが集中すれば、感覚がおかしくなってしまうでしょう。

ここ数年で、「こんなに有名で(褒められ慣れていて)頭のいい人でも、こうなっちゃうの?」と思う事例を見る機会が増えている。ウェブで炎上する有識者みたいな人を見て「どどどどど、どうしちゃったの?」と思うと同時に、「覇権欲に火がつく瞬間なんて昔は目に見えたかったのに見えてる」という状況は、画期的な学び環境。ヨーガの心理学は意外とここを指摘しているものが多いので、かなり勉強になります。ヨガの(特にアーサナの)やりはじめの初期にありがちな、肉体に向けられる覇権欲とほんとうによく似ていると思う。



<事例4 考察 より>
本当は、インターネットにも「営業時間」に相当するものがあったほうが個人メンタルヘルスの維持の面でも、甘い判断に基づいた買い物を避けるためにも良さそうですが、ネット関連企業は「パジャマ姿の相手に商取引を迫れる」アドバンテージを絶対に手放そうとしないでしょう。

手放す理念を打ち出せる経営者が出てきたらほんとうにすごいと思うけど、ネット事業同士だけでなくテレビ通販の市場との奪い合いと考えたら無理なんだよなぁ。ネット関連事業を行なう大きな会社にとっては、通販も課金サービスもお金であることは一緒。スマホの時代になって、そもそもモノに萌えない若者たちから小銭を取るようになっている。広告事業はクリックとページビューを増やす方向に流れる。まったく穢れ感なしにウェブの事業をやっている人って、ほとんどいないんじゃないかな。




わたしはインターネットの黎明期からずっとウェブの近くにいるので、「昔はつながれなかった人とつながれた!」という感動の大きさがずっと根底にある。いま多少状況を冷静に見られるのは、あの頃の感動の記憶がブレーキのような効果を果たしているからだろう。でも友人のお子さんの世代はそうじゃないし、その母親である友人は、もはや頭が混乱するしかないなかで果敢に子育てをしている。というかスマホのことで子供と冷戦をしている。
なだいなだ先生のいう「ケシカラニズム」がいまものすごい形で可視化されてきているなか、ウェブに強い精神科医の意見はとても貴重。こういう内容が、中高生やその親でショートカット・アイコンがわからない人たち(←ごめんよ。本人)に読める形で伝わっていくと、救われる人が多いと思う。サイレント・マジョリティはわかっているのかもしれないけど、わかっているひとたちが共感するには、インターネット上で求められる文章スキルはハードルが高すぎる。

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