うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

こころの処方箋 河合隼雄 著


まえに「無意識の構造」の感想を書いた後に、河合隼雄さんの本を何冊か読んだという友人が「心が迷子になったときのために手元に置いている本なの」といって貸してくれました。
なにかに対して湧き上がる否定的な気持ちにはいろいろなパターンがあるけれど、心(頭)で感じる不快な感情を「わからないものは、わからない」というままにできず、なにかを悪者にしようする気持ちが連鎖する状況のパターンが多く語られています。
世の中には文句をいいながらやっているうちが花であるということもけっこうあって、そういうことをゆるゆる語れる環境がどんどん少なくなる昨今、この本は友達のような存在の一冊として手元に置いておきたくなる。なるほどそんな本でした。森博嗣さんの「常識にとらわれない100の講義」が好きな人は、この本も好きになるでしょう。


55のテーマで語られるなかで、特に以下の内容が沁みました。

  • 善は微に入り細にわたって行なわねばならない
  • 灯を消す方がよく見えることがある
  • どっぷりつかったものがほんとうに離れられる
  • 権力の座は孤独を要求する
  • 羨ましかったら何かやってみる
  • 精神的なものが精神を覆い隠す

あとがきに、こんなコメントがありました。

「人の心などわかるはずがない」。そんなのは当たり前のことである。しかし、そんな当然のことを言う必要が、現在にはあるのだ。試しに本屋へ行ってみると、人の心がわかるようなことを書いた本がたくさんあるのに驚かれることだろう。

みんなわからないなりに書いている前提のはずなんだけど、書店には強いワードのコピーがよく見られます。



心に残った箇所を何箇所か引用紹介します。

それぞれの人間がそれぞれの場所で違った生き方をしていても、その根を深く深くおろしてゆくと、地球の中心というところで、すべてが一点において交わることができるわけである。もっともこれは理想であって、それほど深くすすむことはほとんど不可能にしても、国際的とやらで根無し草のようにふらふらするよりも、自分の根を深く深く追求することによって、他と交わることを考えるべきであろう。(「日本人としての自覚が国際性を高める」より)

人に向き合うために自分に向き合うということの説き方として、とてもやさしくていい文章と思いました。


いわゆるイライラするとき、というのは、そのわけがわかっているようで、その実は、ことの本質がわかっていないときが多いのではなかろうか。イライラというのは、人間の落ち着きをなくさせるが、その落ち着きのなさは、何か不可解な者が存在していることを示しているように思われる。(「イライラは見通しのなさを示す」より)

わたしはこういうことの説明はサーンキャ哲学と仏教の教えがすばらしいと思うのですが、イライラの原因を棚上げすることによって救いを探ろうとするイスラームのような宗教もまたありがたい教えと感じます。



「己を殺す」生き方の好きな方は、自分が殺したはずの部分が生殺しの状態で、うめき声をあげて近所迷惑を生じていないか、とか、自分の殺した部分が、思いがけずに生き返って、他人を殺すために活躍していないか、などと考えてみることが必要であろう。(「己を殺して他人を殺す」より)

己を殺して、あとになって「わたしはこんなに耐えていた」という武器を他者に向けるカルマを背負わないように、浄化法が研究されたのだろうな。己を殺すための練習としてではなく。



 危機には、人間の生地が出る、というのは間違いないようである。平素は強そうなことを言っている人が弱さをさらけ出したり、またその逆のこともある。しかし、他人のことをとやかく言う前に自分でふり返ってみて、自分の基本的傾向のようなものの在り方を知っておくのはいいことである。(「危機の際には生地がでてくる」より)

生命力と生存欲がイコールでないからこそ、バランスを取る練習が重要なのだと感じます。



 マジメな人間は自分の限定した世界のなかでは、絶対にマジメなので、確かにそれ以上のことを考える必要もないし、反省する必要もない。マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じるところがある。自分の限定している世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界が存在するのを認めること、これが怖くて仕方がないので、笑いのない世界に閉じこもる。笑いというものは、常に「開く」ことに通じるものである。(「マジメも休み休み言え」より)

「マジメ」や「不器用」を「悪いことをしない人」と同義のようなニュアンスで使う機会が減るといいんじゃないかな。どこか、「マジメ」という響きに便利さや都合のよさがあるのだと思う。



自立ということは、依存を排除することではなく、必要な依存を受けいれ、自分がどれほど依存しているかを自覚し、感謝していることではなかろうか。依存を排して自立を急ぐ人は、自立ではなく孤立になってしまう。(「自立は依存によって裏づけられている」より)

感謝ということのむずかしさを学ぶくだり。感謝って、笑って気軽にできるもんじゃない。



 自分のなかの新しい鉱脈をうまく掘り当ててゆくと、人よりは相当に多く動いていても、それほど疲れるものではない。それに、心のエネルギーはうまく流れると効率のいいものなのである。他人に対しても、心のエネルギーを節約しようとするよりも、むしろ、上手に流してゆこうとする方が、効率もよいし、そのことを通じて新しい鉱脈の発見に至ることもある。心のエネルギーの出し惜しみは、結果的に損につながることが多いものである。(「心の新鉱脈を掘り当てよう」より)

「鉱脈」というのは、うまい言い方だなぁ。



 創造性の弱い人は、創造に使用すべき時間とエネルギーをもてあましているので、「民主主義」のためにそれを使用しているつもりで、創造的な人の足をひっぱることに全力をつくしているときもある。既に述べたように、欧米と日本人とどちらがいいなどとは簡単に論じられないが、日本的民主主義の功罪について詳細に研究する必要がある、と思われるのである。(「日本的民主主義は創造の芽をつみやすい」より)

海外を回っている友人の話を聞くと、この「創造的な人の足をひっぱる」というのは意外と日本だけではないらしい。わたしはインドもそう感じるし、友人いわくアフリカもすごくそういう面が強いという。これを組織や集団で堂々とやっちゃうところが、日本の民主主義の怖さかな。



自分を律する、という表現があるが、これは一種の権力行使であると考えられる。とすると、確かに、自分を律する力の強い人は孤独に耐える力も強い、という事実に気がつくことであろう。(「権力の座は孤独を要求する」より)

まずはじめに発生する権力行使の関係は「心(頭)と身体」なんですね。




いまはちょうど選挙運動の時期なのでいろいろな表現を目や耳にすることが多いのですが、創造的に日本の未来を考えている人の言葉になるべく耳を傾けたい。自分自身がなにか先のことについて思念するときもまったく同じで、まず自分自身のなかにあるドロドロとしたものをしっかり見つめて、誰かや何かを悪者に設定した正義のストーリーはその反対側にあるものを想像して、クリエイティブな言葉の魔術はしっかり分解する、しんどい作業です。頭と心の力がけっこういります。
友人は「自分の心が迷子になる」という言い方をしていたけれど、大人が世の中で迷子になっても前に進んでいくには「仮決めしてアクセルを踏んで、あとで撤回したり失敗する自分も引き受ける前提で動き出す力」が必要なのだとしみじみ思いました。自分で思う自分の姿を撤回することはとても難しいけど、撤回してもなお自分を見放さないことが、なによりも大切なことのようです。

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