うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

なぜ数字が苦手、ということになるのか

たまに「わたしはパソコンや数字が苦手! うちこちゃんは、そういうの得意だよね」とヨガ友に言われます。
でもそう言う人たちはそれを補うバランス感覚を持っているので、わたしがむずかしそう、面倒くさそうと感じることをサッとやっている。
得手不得手というのはあいまいなもので、ほとんど好き嫌いや印象で語っている状態なのですが、「○○に強い」という言葉は、あまりピンときません。「○○に慣れてる」「○○に先入観がない」というほうがリアル。
このくらいの話なら、「ああ、" 数字が苦手 (>人<)" っていえるほうが、かわいくていいもんであるよなぁ」とションボリして終わりなのですが、慣れ不慣れ以前のところでフリーズしている場合はこれまたちょっと別の話です。



「感情をベースに思考をはじめ、そこにロジックを当てはめようと思ってもまとまりっこない」という事実が見えていない状況を、「苦手」のひとことで終わらせてしまうのは、非ヨガ的。

(\( `ロ´)/)←こーゆーメンタルに対して、ヨガはとっても有効です。眼を閉じているところがポイント。



インド思想のなかでもヨーガの教えと隣接するサーンキャ哲学*1はたいがいの混乱を分解・吸収できるのだけど、「苦手」のひとことで終わらせちゃえという気が残っている人には、この教えも届きません。
「事実に対して、感情とそれを構成するドーシャの優劣を整理する方法」はあっても、「感情そのものを混乱とみなさないような魔法」はないからです。瞑想は、それをチョビチョビ切り落としたり、角をヤスリで磨いてまぁるく仕上げるような、そういう技術で、そのプロセスの中で、やさしく「魔法なんて、ないぞ〜。残念だけど」ということを受け止めていく。そのバリエーションが、宗派だったり学派だったりするのだと思っています。
わたしがインド人とのコミュニケーションを「ラク」と感じるのは、「事実に対して語り、感情に対して語らない」「共通点について語り、相違点について語らない」という前提がある人が多く、良し悪しの話にならないムードに包まれているから。




感情的になってしまうのは、なにごとも「強い弱い」「勝ち負け」「善悪」でジャッジしようとするからではないかな。




話を数字の話に戻して、こんなことを思ったきっかけを紹介します。
「日経おとなのOFF」というサイトに、【ここが違う 数学が苦手な人、得意な人の「考え方」】という記事がありました。
「アプローチ法さえ知っていれば、問題は解ける」というトピックなのだけど、アプローチ法を知っていてもドーシャが乱れていたら、智慧は働きません。この記事の中にある「数学が苦手な人→問題の壁の前で立ち止まっている」は、バガヴァッド・ギーターの冒頭のアルジュナ状態。
とても面白い記事で、思考の癖のところまで踏み込まずにまとめるとこういう書き方になり、「苦手」という単語を使う人のところへ届ける手前のところで美しく完結しています。ということは「苦手」といわずにやっていこうとする、感情の混乱のコントロールがまだきく人向けの記事なんですね。数学と心理学は本当はセットなんだけど、セットにした教育ができる場所って、なかなかない気がします。



インド思想では、ドーシャというのは音が鳴れば踊りだすのものなので、そこにエゴをかぶせて何かのせいにできる材料を探していると、人間が腐るわヨゴれるわで、また転生してしまうということになっている。そこで、落ち着いて事実を見つめて整理していくのに、この記事にある
「3.帰納的に考える」「5.対称性を見つける」
というのはとても入りやすいドアと思いました。
「1.因果関係を押さえる(必要・十分を考える)」「4.逆を考える」は、ピッタが過剰だとむずかしい。
「2.視覚化する」「6.ゴールからスタートする」は、タマスが過剰だとむずかしい。



数学も、瞑想のプロセスとよく似てます。中学か高校でやった、図形の面積や長さの根拠を説明する証明問題への対応プロセスは、いま思い出すとまるで瞑想です。


と、ここまで書くと「感情的になるのはアホだ」という流れに見えなくもないのですが、いわゆる一般的なしあわせと言われていることは、ほどよく感情に攪乱された状態のいい感じが積み重なったり循環したりして成り立っているように見えます。なので、苦手と言ってしまう背景には幸福な色合いもあり、苦手といえるうちが花、みたいなところもあると思います。ほどほどに、「感情的に苦手と言ってしまう癖」には向き合っておくとよいのでしょう。
わたしも、なにか苦手なことにちょっとずつ近づいてみるかなぁ。恋愛小説とか、感動スペクタクルな映画とか(笑)

*1:日本語にすると「数論」という文字列で訳されたりするので数学に関係するものと思われそうですが、数学の哲学ではありません。