うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

Q健康って? よしもとばなな 著


Q人生って?」はQ&A形式でしたが、これは対談集と、ご友人の闘病記。
前半の対談が東洋医学的な視点でまとまりがあったところに、後半で西洋医学的な闘病記があることで、すごく今の本という感じがするし、それを含めて「健康を考えること自体が、病や障害に対する感情的な取り組みなんだ」という気がしており、この本は読みながらずっと感じていたことは、末尾の【「Q健康って?」読んで考えたこと 整体師・片山洋次郎】の以下の部分にあっさり明示されていました。

多分人間だけが、自分の身体の外側から自分を見る意識を獲得してしまったことが問題なのだと思います。

片山洋次郎氏のコメントは、このあとの部分が本当にいつもながら鋭いので、ぜひ読んでみてください。


対談部では、ばなな氏が興味深い食いつき方をしているところが別の方向へ行き、「おっとここ、もっと聞きたかった」という箇所がひとつありました。心身の状態を表現するボキャブラリーについて語られる場面です。以下、ばなな氏発言部分の引用抜粋。(ホメオパス・勢旗孝代氏との対談部分より)

  • (恐怖の感じ方についての話の流れで)ある程度一般性がありませんか。こういうときにどう感じるかっていうことに関して。つまり好ましい状況じゃないときにどういうふうに感じるかっていうのは、ボキャブラリーが少ないとだいたい同じところに落ち着いちゃうっていうか、それ以上深くあまり言わないっていうことはないですか。
  • 痛いは痛いし、狭いは狭いとか苦しいは苦しいとか。わりとパッと一般化しちゃうでしょ。戦場に行く人に何か言ってくださいっていうと、故郷は美しいとか書いちゃうように、自分の奥の感情じゃなくて、一般化した苦しみとかを。

普段感じたことを言語してみる癖づけを、だれもがやはり、したほうがいいと思うんです。この対談では、相手のかたが「ばななさんはもうご自分のことを探求され慣れているから。でも普通の人はあまり考えないですよね。痛いは痛い。」と返答する流れなのですが、物書きの人でなくても、言葉は専門家だけのものじゃない。
ヨガの場合だと、よくここでも書いている「体が硬い」という表現もそうですが、「股関節」「肩甲骨」「骨盤」などの単語も、状況や感じを共有するのにそんなに便利な言葉じゃないはずなんです。それは「存在」であって「状態」ではないから。たまにクラスのリクエストで「股関節をテーマにお願いします」と言われるのですが、それはわたしの感覚では、テーマに使う語彙ではない。
フィジカル・メンテナンスのアプローチで使われる語彙って、ここでばななさんの言う「一般化」を先に投げかけちゃっている。感じる思考を停止させてしまう行為なんですよね。アイデアのない状態で身体と対話をすることに踏み込めない、という状況に一般化したワードをかぶせるのは、あまりにも雑すぎる。
この部分を読んで、日々考えていることを思い直して悶々としました。



このほかの部分では、Taozen代表・大内雅弘氏の語る

考え方はやっぱり自分がどんな枠を持っているのかっていうのを確認しなきゃいけないと思うんですよ。自分の枠じゃないものと出会ってみないと自分の枠があるかどうかもわかんない。そういうことをして体質と気質を変えて、考えるっていうの何質って言うんですかねぇ。思考の方法みたいなものを変える。体質だけ変えてもそのあとの二つ(気質と思考の方法)が変わらないと体質が戻りやすいんですよ。

この三位一体論には、うなずくばかり。サーンキャでいうと、気質と思考の方法の間にあるのが「ブッディ」とされていて(とわたしは理解しておるのです)、この「知覚」機能の質を明るくしていくことの重要性を語らないポジティブ・シンキングってのは「軍隊」じゃないかと思っているのですが、このかたの語りは大切なことをふまえたうえで展開されていました。
ばなな氏のいう「悪霊」も、この大内氏の語るバランスを放棄するかしないかの分岐点から発生するのかもしれません。




ホメオパス・勢旗孝代氏の、以下の発言も響きました。

<81ページより>
健康って私の中では潜在意識とか精神とか感情とかのバランスのよさの上に立った身体のバランスのよさだと思うんですよ。身体だけいくらよくても、下の部分がグラングランだったら健康とは思わない。

ヨーガの教えの中に記憶の刻み方のありようの重要性を説いているものがあることを知り、これまでバランスの材料としてみていた範囲が爆発的に拡がったのですが、これはホメオパシーとの大きな共通点だと思います。




セラピスト・安田隆氏の「顎」の話も、うなずきまくりでした。(過去に紹介した本はこちら

<125ページより>
人間の身体には危機に対抗するシステムが三つありまして、一つ目が骨盤、次に横隔膜、そして最後の砦が歯をくいしばって身を守る顎です。

ヨガのアーサナは喉仏をふわっふわのままにできてナンボなんですよね。危機をどれだけ頭部に近いところでなく腹で受け止められるか。心にもいいといわれるのは、「余裕」をつくれるからなんですよね。(ということで、ナバーサナがんばりましょう)




対談のあとには、31歳で乳がんを発病し、転移を繰り返した女性「るなさん」の壮絶なガンの闘病記がありました。
誤診、セカンドオピニオン、ながら診察、こんな説明や告知のしかたをする医師が世の中にいるのか? などなど、「ああやっぱり、こういうことってあるんだな」と思いながら読みました。神の存在が登場する必要を感じさせない、自分でドライブするエネルギーとそれを枯れることなく燃やし続ける、自分のなかにある火と風のコントロールの現代的な姿。何度も「こうやって気持ちを上げていった」というエピソードが出てくるのですが、「わたしの命をわたしが生かせないなんて、そんなことあるわけがない」という確信を持って余命宣告を打ち破りまくり、医者を疑うところは疑って、自分の感覚を信じている。これもひとつの神との対話の方法と感じました。
「医者はこういっているけど、身体はそう感じていない(頭ではなく)」という、自分で自分をボディスキャンすることを怠らない、こういう闘病の態度って、なかなかできることじゃない。
ここで感想のはじめのほうと話がつながるのだけど、「身体が感じていることを意識のなかで言語化すること」を放棄したら、それはもう誰かほかの人間にドライブされても致し方ない命。考えるのではなく、感じたことをリアライズする作業の大切さをあらためて思いなおしました。
身体の声を吸いあげて、出す。ダイナミックな呼吸。ここに取り組めないと、ただ漠然とした不安を漠然とした言葉に乗せて、漠然と健康を願うことになってしまう。


「Q 不健康って?」


リアライズすることは、ここからかもしれないなぁ。


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