うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

そしてまたわたしたちは身体論へ逃げるのか

ここ最近、オウム真理教信者の逮捕に関する一連のニュースをきっかけに、ヨーガ関連用語の検索でこのブログにたどり着く人が一時的に増えました。いま多くの日本のインストラクターさん、指導者さんたちが「ヨーガに対する世間の誤解ふたたび」と感じていると思います。
誤解というのは、与える・与えられるという関係ではなく、期待されていたものとのギャップ。こういうなにか、もやもやっとした「なんだかなぁ」ということは、how の分解だけでは天井がすぐにやってきます。
ヨーガをいいものだと思っているならば、why についてもそれぞれが自分なりに見つめてみたほうがいい。今日は、わたしなりの言語化を共有します。ずるずると、思いのままに書きますね。
(ここはインターネット上での記述場所なのでいつもは「ヨガ」と記述しているのですが、思想としてのヨガを指すところはヨーガと記述しておきます)



わたしは、たまにヨーガの先輩に「真剣に学んでいる感心な人」のような言われかたをすることがあるのですが、あまりそういうノリではなく、世の中で流行るヨガについては「エクササイズで、いいじゃない。やらないよりは、いいのは確かだから」という考え方でいます。ただしそれは、「とっかかりとしてはね」というところで。
この「とっかかりとしては」というのは、オウム事件リアルタイム期の後〜ここ最近までのヨガブームに対してです。あの事件の後に日本のヨーガが身体論に走るのは、もうそりゃ当然な流れと思っていました。日本じゅうに「ヨガは怪しい」というムードが漂っていた。
わたしは2004年の末にヨガをはじめたのですが、その場所がオウム真理教の道場があったエリアだった事もあり(いっぱいあったんですよね)、田舎に住む母親に「そこは大丈夫なのか?(オウムではないの?)」と聞かれました。大先輩のヨガおばさん(番場さんを「有名な先生、きゃぁ☆」と見る世代)が、娘にそう言うわけです。そのくらいのムードでした。


それでもヨーガを必要とする人はいっぱいいる。だって、アーサナは体操ですもん。それにちゃんと呼吸と意識をくっつけて体系的にやっていこうとすると、ヨーガですかね、となる。西洋人もやってるよ、マドンナさんもやっているよということで心おきなくやれるなら、それがいいんじゃないかという落としどころには至極納得なのです。
こんなにシャイな日本人が、オリビアニュートンジョンの真似をした時代の後ですから、それに比べたらかわいらしい変遷です。なんとその後「ビリーズ・ブートキャンプ」までやる、もはやかわいらしさのかけらもない国民になりましたしね(笑)。


そんななか、ヨーガをする日本人がもつ「もやっとした背徳感のようなもの」は、いまに至るまでずっと付かず離れずあって、17年が経ちました。オウム真理教の事件以後のヨガが1周目だとしたら、これから2周目に入っていくのだなと、いま、そんなことを感じています。
ヨーガは、「心のバランスを整えるために、その容器である身体からアプローチしていくもの」であることを感覚的に理解しながら、一方では「逆に、心のバランスを偏らせることもできるもの」であることについても気づいている人が多いのだけど、あまり語らない。この「語らないこと」をやめない限りは、またヨガが身体論に偏ったかたちで2周目に入るのだろうな。と、そんなことを考えています。



わたしは、本音のところでは
「なんかヨガってシューキョーっぽい」といわれたら、これはシューキョーなのかそうではないのかといわれたら、「シューキョーではないと言いたいところですが、宗教です」という気持ちでいます。



シューキョーと宗教。


問いの時点の語感の違い。こういう機微に直面するとき、いつもいろいろなことを考えます。日本人は無宗教だとか、海外旅行の際に【religion】を問われる欄があったら「non」と書く感じとか、そういうことに自問自答しては、もんやりします。この自問自答がわりと早い時期からあったので、いまに至るまで、こんなふうに「身体論として」「宗教として」「哲学として」ヨーガを追いかけているのかもしれません。


あらゆる学習への取り組み方の姿勢を表す言葉が、日本語には少ないように思います。
「いいと思うから続けている」「なにがいいんですか?」「なにがって、いわれてもなぁ……」でもなんだかきっと、梵(わたしの訳では「なんだかとにかくすごいもの」)を感じているのだと思います。かといって、「神との合一」とかいわれても、よくわかりません。
イスラームスーフィズムには、「陶酔の道」と「素面の道」があるといいます。これはとても興味深いと思ったのですが、「陶酔の道は、迷いがあるからこそ、それを払拭するエネルギーによって陶酔できるのかもしれない」と、そんなふうにも感じます。それが「浄化への執着」になる。まあそれでも、何かからのスイッチ先や分散先として、ヨーガはよいものだと思っています。



信仰でも宗教でもないからこそ、オウム信者といわれる人たちは、「陶酔」できたのでは?



言っていることがよくわからないかもしれませんが、そう思うのです。
自然災害をきっかけに入信した人がどれぐらいいたかはわからないのだけど、社会的な迷いと、自然災害の中にある迷いは、畏怖する対象のスケールが違います。



話は少し変わりますが、一時期、禅の本を読んでいたころに「これは一元論でも二元論でもない。なんとも1.5元論な感じ」という感覚がありました。四季の恵みと無常さがいつも身近にある風土の中で、DNAのように持っているもの。
これは身近なところにもけっこうあって、予定調和なのだけど、そのプロセスを楽しんでしまうセンスは、ちょっとヘンといえばヘンです。プロレスの2.99カウントで「ウォー」なんて言いながら、楽しんでしまう。0か1でもなければ、1か100でもないけれど、「この展開、この流れ、なんかおもしれーじゃねぇか」という心が、粋ってやつなのかもしれません。



「予定通りじゃなきゃイヤ」という気持ちが、「陶酔の道」への第一歩。
「けしからん」という気持ちが、「正義への変換(誤変換であっても)」への第一歩。
(予定通りじゃなきゃイヤ、というのは、「いい大学を卒業したら、こんな権威を持って……」「結婚したら、こんなふうに幸せになって……」などの考えをイメージして書いています)



「こんなはずでは」までは、誰もがある苦悩。わたしにもあります。
それが「けしからん」となったときに、相手ではなく自分を見ることができるか。
もしあなたがわたしと同じようにヨーガが大好きで、大好きゆえに「ヨーガを利用したオウム真理教、許せない! けしからん」という気持ちになったとしたら、「わたしがやっているヨーガは世間からこういうイメージで捉えられるべきもの」という「予定」を持っていたということです。「自分にとってのヨーガ」ではないものが占める比率がけっこうあるなぁ、と。
わたしはこの事件のニュースを見るたびに、いつもこんなブーメランを投げてはキャッチしています。心の腹筋が割れ割れです。
「これはシューキョーではありません、ヨガです」というのはやっぱりちょっと、無理があるのではないかしら。こういうことについて、自分の言葉で語れる人が増えていくことが、いいことなんじゃないかな。と思うこのごろです。