うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

はじめての刑法入門 谷岡一郎 著

「刑法の思想」への入り口もかねた本。いまのわたしには、ものを見る角度に鮮明さを与えてくれるような本でした。
この本は書店でなにげなく手に取りました。ちくま文庫・新書の棚が好きなので、いつものように巡回というかんじで。2009年の本ですが、いま多くの人に読まれたほうがいい本だと思うので、引用は薄く・気持ちはアツく紹介したいと思います。
ここ数年、世の中のニュースからじっくりと混乱に巻き込まれて、いろんな感覚が麻痺してくるような、そんな空気の中にありました。こういう感覚をマインドコントロールといったりする人もいるのですが、わたしはもう少し違うように感じていました。
北尾トロさんの本を読んだのをきっかけに傍聴をしたり、そうでなくても身の回りで起こる法律に関わるニュース(改正薬事法や景表法への抵触など)を見るなかで、刑法と民事が縦糸と横糸のように編まれている状況をどう捉えるか、ということについて考えるようになりました。

この本は、著者さんのスタンスが明確に示されたうえで、かつ、素人にもとてもわかりやすく構成されています。
どこから読んでもいい内容でありつつも、その章立てのながれもよくできています。

「不公平さ」は刑罰において避けるべき要素の最上位にあると考えて下さい。(23ページ「刑罰強化より確実性」より)

ぼんやり、「そりゃそうだ」と思うことをことごとく具体例とともに示してくれます。

 近代社会が成長していく段階で、人々は権力者による「権力の濫用」というものがあることを学習しました。特に権力ある「お上」が、弱い立場の個人を相手にするとき、理不尽ないいがかりであろうと、犯罪の証拠の捏造であろうと、権力のある側のやり放題になりがちであることを体得しました。このあたり、戦後いきなり憲法とそれに伴う自由が天から(?)与えられたに等しい日本人は、体得できていないため実感のない部分です。(67ページ「権力を見張る必要性」より)

鎌倉時代の念仏弾圧・島流し。そして、「戦後いきなり憲法とそれに伴う自由が天から与えられたに等しい」わたしたち。鈴木大拙氏が、【「不自由」のなかに、自由自立のはたらきをしたいのだ。ここに人間の価値がある。】と解説していた「自由」の感覚の違いの根深さと歴史。



わたしは裁判員制度の法廷を見たときに、こんなことをずっと感じていました。

「人を感情で裁いてはいけないが、人には感情がある」

この本はそこにずっと寄り添ったスタンスで、わかりやすい説明に徹している。投げかけに使われるたとえは、こんな具合です。

 刑罰というのは、「社会による非難の度合い」を表すわけですが、たとえば「柔道の達人とけんかしてけがをさせる」という(傷害)行為と、「身障者の松葉杖を隠して困らせる」という(窃盗)行為を比較したとします。


(中略)


法定刑で言えば、前者の方が重く罰せられることは、まずまちがいないでしょう。日本における法定刑の幅(上限・下限)は、100年以上前に作られたものが基本ですが、明確な基準はありません。(110ページ「悪質性の基準 ─ センテンス・ガイドライン」より)

傍聴へ行くと、いつも法定刑の重みと常識感の強度のつまみをあっちにふねったり、こっちにひねったりすることになります。

 緊急避難の条文にある「これによって生じた害が避けようとした害の程度を超えなかった場合」という文言は、昔から議論の的でした。救命用具に体重の軽い人が二人つかまっていたのを奪い取った太りぎみの人はどうなるか。主観的に大切なものを守ろうと、他人の犬を撃ち殺したらどうなるか、などなど。仮定の事例はキリがありません。(156ページ「緊急避難」より)

全般、専門用語やあいまいに理解している線引きの定義、そして線の引きようがないところは「著者(父役)」&「質問者(ふたりの娘)」の構成で補足されています。



この本は、冒頭からおもしろかった。
以下は本書の冒頭に登場した他のかたの著作の引用なのですが

小室直樹氏によると、「イスラム圏の国々の規範は理想的な姿をしている。なぜなら宗教上の規範と、法律と、そして道徳や慣習はほぼ一致し、重なり合うからだ」(『アラブの逆襲』光文社)という意味のことが解説されています。

たまたま同時進行でスーフィーの教えを読んでいて、ここには思わずひざを打つ思い。


このほかには、この本で学んだものとして、具体的にこんなところをメモしていました。

  • 適正手続(デュー・プロセス) 33ページ
  • 刑法犯の分解構成比(登場するのは平成19年の例) 41ページ
  • 刑法総論の見出し 59ページ(これは保存モノ。傍聴の参考書になる)
  • 控訴と上告 87ページ(基本用語解説もわかりやすい)
  • 犯罪成立要件としての責任 90ページ(傍聴に行くとよく登場する)
  • 刑罰の機能 ── 応報と教育 120ページ(みんなの気になるカルマの話だよ)
  • 決定論と非決定論 121ページ(話の仕組み的には輪廻あるかないかみたいな話だよ)
  • 性犯罪者の監視 145ページ(アメリカ「メーガン法」の話)このあと、日本の警察の強引な被疑者尋問手法の例も出てきます。
  • パワー・ポリティクス 161ページ(ここは、仏教系の人が弱いジャンル)

なるべく長い引用は避けようと思っていたのだけど、以下はこの本をおすすめする理由、呼び水として紹介。

<91ページ 犯罪成立要件としての責任 より>
 責任とは、ひとことでいえば「非難可能性」、つまりその行為者を非難しうるか否かということとされています。有責に行為する能力とは、行おうとする行為が?違法であるとする認識力(弁別能力)と、?違法であるがゆえにそれをやめようと自制する能力(行動制御能力)の二つの要素で成り立っているとするのが通説です。
 正直に言うと、「責任は『非難可能性』である」という説明は、どうしても(個人的に)消化しずらい面があります。10歳の子供でも非難できますし、パニック状態で他に取りうる行為がなかったとしても非難する人はいるでしょう。ですから本書では、責任とはなるべく「善悪の判断、およびするべきであった行為の制御が可能であったか」という意味で使用することにします。

こういうふうに、ひとつひとつスタンスを微妙であっても自分の言葉で示していくこと。その丁寧さと語り口がよい。

<104ページ 少年法の精神 より>
 やっとこさ、本題に入ります。少年法と刑法とは、何がどう違うのか。少年法はいつ、なぜ作られたのかという、「そもそも論」です。
 刑法(明治40年<1907>年)が作られて10年以上たっても、大人も子供(といっても14歳以上ですが)も同じ裁判所で裁き、そして時として同じ刑務所に入れられたりする時代が続いていました、ともすれば刑務所は「犯罪の手口を学ぶ場」として機能し、若い者の犯罪傾向を上昇させているのではないか、と危惧されたこともありました。大正11(1922)年に少年法が作られた背景には、明治後期に海外から近代法思想が入ってきたこともありますが、そのような事情があったそうです(斉藤豊治氏による研究会「商経学会」2009年5月の発表より)。

この話に入る流れの前に「永山基準」「光市母子殺害事件」が題材にあります。そこからこの歴史へ背景の説明に移っていく。目先の少年法について語る前に知っておきたい、少年法が作られた背景。「犯罪の手口を学ぶ場」もそうですが、子供の目線では単純に「大人も来るんだな。しかも、もっとすごいことしてる」と思うだろうなと。


この本の最後には「量刑の見直し ── 筆者の主張」という章があります。そのなかで語られる以下の指摘が鋭くて、「いまの日本」の実感として残る。

<179ページ 主張(2)事実上、取締りのない犯罪、特に被害者なき犯罪については、刑法典から削除すること より>
(1970年代にスウェーデンアメリカを皮切りに欧米の多くの国々で非犯罪化されたポルノグラフィティについて触れた後)
 名目上禁止されてはいるものの、よく売れている週刊誌やスポーツ新聞にかなり過激な写真やイラストが載っている。そしてそれを電車の中で堂々と広げることのできる国があります。インターネットや非合法の取引によって、幼児ポルノでも獣姦でも何でも見ることのできる国があります。その国には、人を襲うことで点数の上がるゲーム・ソフトもあります。よく考えるべきです。禁止されていても実質はスカスカの国と、合法化されていてもキチンと線が引かれている国と、どちらがまともな国でしょうか。

わたしの身近なインド人は、日本のことを「本音と建前の国」といい、「日本は頭がおかしかったことにして裁判するから長くなるね」という。こういう話をよくしていたところだったので、この部分が印象に残った。


暗に示されている深い示唆も多い一冊で、わたしはこの本を読んでから「堀江メール問題」の流れをあらためて知りなおしました。
この本のあとがきには、こうあります。

 刑法は誰のために書かれているのか。もうあなたは答えを知っているはずですね。


この問いに始まり、この問いに終わる。
ここまで考えさせてくれて、780円は破格。かなりの良書です。

はじめての刑法入門 (ちくまプリマー新書)
谷岡 一郎
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