うちこのヨガ日記

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仏典のことば(第一部:経済活動の意義 ─ 仏教と経済倫理) 中村元 著

正式には「仏典のことば 現代に呼びかける智慧」という本で、3回の講演をまとめて一冊にした本です。
25種類もの仏典からの引用を含めて展開される内容。これまで中村先生の本は仏典の訳にしか触れたことがなかったのですが、これは講演録で、中村先生の人間らしい「時代に対する感情の吐露」も読みどころです。

ヨーガ・スートラはいろいろなバージョンの訳や解説を読んできましたが、以前中村先生の訳したヨーガ・スートラを読んだときに、このかたはその時代の生き様や時代背景ごと、まるごと訳そうとしているのだなぁ、ということが伝わってきました。
「ほら、昔の人がこう言ってるんだよ」というスタンスではなくて、文脈から時代背景への捉え方も伝わってくる。読んで訳している経典の数がハンパない人で、だからこそなのかもしれませんが、決して仏教の教えを過大視しない。そのスタンスの堅牢さが、圧倒的に信頼できる。


ヨガをしているといろいろな「教えの伝播」を見ることになるのですが、「経典のことば」をその歴史や文化、時代背景を割愛して語られることのほうが多いです。技術書になればなるほど、その傾向は強まる。技術書は「妙訳」をつくりやすいですよそりゃ。というのは、多少文章を訳したり書いたり(わたしの場合は趣味程度ですが)すれば、わかります。
それを踏まえた上で、慎重かつスピーディに伝えることを続けるというのは、本当にすごいことだと思います。
前置きが長くなりましたが、今日は第一部のなかから、印象に残った箇所をご紹介します。(カッコ内)は中村先生が引用された経典名です。

<31ページ 消費の制限 より>
 わが国でも、非常に俗な表現ですが、「飲む、打つ、買う」というこの三拍子が、身をもちくずす原因であるとよく言われますが、そっくり同じことが今から二千五百年前に説かれているわけです。

(中略)

 個人の問題としては、「飲み友達と交わるな」という。
「飲み友達なるものがいる。きみよ、きみよ、と呼びかけて親友であると自称する。しかし事が生じたときに味方となってくれる人こそが友なのである」(ディーガ・ニカーヤ長部)

昔からこう言われていたんだよ、というよくある教えではあるのですが、「きみよ、きみよと呼びかけて〜」というのが、心当たりがありすぎて沁みる。過去に何度もこれにギブアップしてきた。これからの時代でいうと、これはSNSのなかで起こっていくのだろうか。

<61ページ 均分に伴う諸問題 より>
 布施の強調についても、歴史的発展の経過を認めることができます。『テーラ・ガーター(長老の詩)』『テーリー・ガーター(長老尼の詩)』には、布施を賞賛する思想はほとんど現われていません。また『スッタニパータ』にもほとんど現われません。
『相応部』第一篇に現われる布施の思想は非常に精神的です。しかるに後世の経典ほど、物質的な布施を世俗人に向かって称賛しています。
 これは恐らく、マウリヤ王朝以後教団の拡張と共に、在俗信者の財的支援を必要とするに至ったからでしょう。また最初期の経典(『スッタニパータ』や『相応部』第一篇)では、まだ仏教教団が確立していなかったので、まじめな宗教者一般に対する布施を説いているのに対して、のちの経典では、特定の宗教団体としての仏教教団(サンガ)に対する布施を勧めています。

布施に対する考え方は、経済とのかかわりが深い。インドへ行くと「料金は、ドネーションで」「それっていくらくらい?」なんてことに戸惑うことを経験すると思うのですが、ドネーションすらも語られずにオープンな場もある。
この場合は、信者ではないかもしれない人への「便宜的な単語」という見かたでいったん解釈して、さてわたしの経済観念は……と考えてみるのが「契機」なのだと思います。「日本人だから、豊かな国から来ていると思われているだろうし」というのは、あくまで憶測。
それすら見放された状況で「ドネーション」という単語が頻出するヨガの世界は、なかなかおもしろいのだけど、個人的に、国内でそれをやるのはどうなんだろうとも思ったりする。同じパイのなかで経済を回している認識を放棄しているような、そんな気がすることがある。

<76ページ 財の意義 より>
仏教徒たるものは、『財が滅じたときには「ああ、財を取得する原因をわたくしはすべて実践した。しかるにわたくしの財は滅じた」といって、悔いることがない。また財が増すと、「ああ、財を取得する原因をわたくしはすべて実践した。そうして、わたくしの財は増した」といって悔いることがない。二つながら悔いることがない』(「ラトナーヴァリー」)だから友人が財を失ったからとて、軽蔑してはなりません。仏教理論は最初から、結果論よりもむしろ動機論の立場に立っていましたから、その立場にもとづく限り、これも当然の立場でしょう。
 したがって仏教においては財を尊重しながらも、しかもしれに対する執着を離れることを説くのです。在俗信者であっても、財に対する執着を離れることが、他のもろもろの徳の根本となるのです。

「仏教理論は最初から、結果論よりもむしろ動機論の立場に立っていました」。なんでも「カルマ」で片付けたり「輪廻思想」でそれっぽく着地することができてしまうのがインド哲学の怖い一面でもあるので、こういう解説は実に貴重だと思います。

<79ページ 生産の問題 より>(南アジアの諸国に僧侶が多いことについて)
 それは他面、経済的観点から見ると、失業問題の救済策にもなっています。世俗にいる必要のない人が仏門にはいっておれば、戒律を厳守するので非行に陥ることなく、したがって出家ということが社会的な安全弁となっているのです。

ここは単純に「なるほどね」と思うのと、「世俗にいる必要のない人」というのは、常識をくつがえされるような表現。

<89ページ 職業の種別 より>
王族の中には仏教に帰依したものもいましたが、その下に使われている戦士たち(それは種々なるカーストの出身者でありえた)が仏教と縁が薄かったということは、インド文化史における重要な事実です。
 仏教が定めた職業に対する制限は、バラモン教叙事詩の場合と比べてみて、その原則に関してはいちじるしく簡単となっています。呪術的、習慣的な要素を除去していて、特殊な民族にのみ固有なタブーというものは認められません。ここにも仏教が普遍的な宗教としてひろがりえた所以を見出すことができます。

これは、リグ・ヴェーダを読むとよくわかるのですが、とにかく、「職業の種別への記述」が多いんです。
リグ・ヴェーダの面白いところは「女性の生理についての記述」で、それを汚れとしてこんなにも大げさに大騒ぎしていたなんて! と、とにかく驚く。そこでも「はい、バラモン登場〜」な流れになっていて、もはやお家芸のように見えてくる。
時代を感じます、というには紀元前1200年というのは昔すぎるのですが、とにかくこういうことはシリアスに理解しようとすると遠回りになる気がします。わたしの場合はね。

<91ページ 仏教の経済倫理と資本主義の精神 より>
 西洋においては、ユダヤ教およびキリスト教の反魔術性の精神が、資本主義の成立に大いに力があったと考えられています。ところが原始仏教の場合には、前の例に見られるように、反魔術性を婉曲なことばを用いて表現し、実質的に実現しようとしました。すなわち仏教は、バラモン教の呪術的用語を継承しても、その内容を改めて実質的には中和してしまったのでした。
 ところが教団の発展とともに新たな魔術性が芽を出してきました。たとえば、「商人のうちに成功する者と失敗する者があるのは、宗教者やバラモンにかれらの欲するものを与えるか否かによる」(アングッタラ・ニカーヤ)などと説かれるようになりました。この魔術性は後代の大乗教、ことに密教では大規模に発展するに至るのです。

(中略)

ここにわれわれは近代資本主義の宗教倫理との差異の一つを見出しうるし、また後代になって大乗仏教、あるいは近代のヒンドゥー教が、従来の宗教の超世俗性を批判しつつ独自の倫理を展開せねばならなかった理由を認めうるのです。

これはわたしの解釈では「援助に対する納得のさせ方に呪術性を潜入させること」を説明されている部分。「金なのか? 徳だろ?」というのは、いつの時代も宗教のブラックボックス的な問いです。
カーストがないといいつつちゃっかりあるインドで、「近代のヒンドゥー教が、従来の宗教の超世俗性を批判しつつ独自の倫理を展開せねばならなかった」という歴史を学ぶには、ガンジーアンベードカルの人物史を学ぶのがよいと思います。

<99ページ 経営者の心づかい より>
原始仏教が西紀前五年ー四世紀にガンジス川流域の諸都市を中心にして興起したときには、その信徒のうちに商工業者が多かったのですが、小規模経営で使用人たちと同じところに住んでいたので、次のような心づかいが述べられているのです。
「主人は五つのしかたで、奴隷傭人に奉仕しなければならぬ。すなわち、(1)その能力に応じて仕事をあてがう。(2)食物と給料とを給与する。(3)病時に看病する。(4)すばらしい珍味の食物をわかち与える」(パーリ語長部経典「シンガーラの教え」)

(中略)

 男女性を無視するということは、人間を人間としてではなくて、単なる物体として把捉しようとする試みです。物体化の領域においてはそれは差し支えありません。しかし男性化した女性、女性化した男性ばかりが増大しつつある社会のうちには、人間性の喪失が見られます。
 これは、経営者の方々はもうよくご存知のことだと思いますが、この頃、「男女平等」ということをしきりに言われますが、厳密な意味での男女平等は、これ宗教の世界で言われることでありまして、また宗教の世界はそうでなければならない。しかし、実際の社会では、短絡的に男女平等では押し通すことはできないいのではないでしょうか。平等だからといって危険な仕事を女性にやらせていいでしょうか。やっぱり人間社会の多層構造を考えねばならないと思うのです。

危険な仕事にもいろいろありますが、たとえばストーカーっぽい粘着性を感じる人からのクレームを受ける仕事で「上の者を出せ」という場面で、女性を「上の者だから」といって出すぅ? と思ったりします。
「女性を評価する組織です」というのも、誰に向けたポーズなのか。怖い思いをしている女性は多いと思います。便利になって人の力が余っているうえでそのポーズを取りたいのなら、ボディ・ガードのような仕事も仕事として組み込んだ上で、有機的に組織を構成しないと、「人が動物に戻ったとき」を想像した瞬間に恐怖は押し寄せる。女性ならではのバランス感覚が評価される社会というのは素晴らしいと思うのだけど、そこでは人間の機能がかえって無視されている。
女性が女性として、男性が男性として能力を発揮できる環境というのは、たとえば「子を持つ母だから共感できる」としてまつりあげられる象徴的なポジションにある女性でも、そこに戦略があるのだったら、しっかり複合的に構成しないと気の毒です。子がなければないで、バッシングされるんですから。どちらにしても「強い女性像」というのはあくまで「像」なんですよね。動物として、そうなんだもの。
これは、世の中のニュースを見ていて思うことです。わたしは、フェミニズムがよくわからない。



仏典というのは、時代とともに読み解いていくものなんですね。「これじゃ食えないから、仏典の解釈はこういうことで」という背景があるみたい。
だからといって「信用できない」ではなくて、信用できるものを求めることについて目を向けさせてくれる、それをつくづく感じさせてくれる、すばらしい講義内容だと思いました。
「○○=よいこと」「○○=わるいこと」というわかりやすいものには、背景があるんです。なにごとも。