うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

愉気法2 野口晴哉 著

愉気法2
愉気法1」をずいぶん前に紹介しましたが、これは昭和42年の講述が中心。
愉気法2」には、最後に呼吸法について語られる「脊椎行方法」という章があります。昭和42年といえば二木先生亡き後(三大呼吸法以降)そこから派生するものも含めて、さまざまな呼吸法が提唱された時代です。
ヨギ的には、この時代にそこへ野口先生が言及しているってだけでかなり興味深いのですが、そこには経絡だのイダーだのピンガラーだのなく、いきなりスシュムナー。「電車の中でも歩いている時でも」とおっしゃる。経絡だの経穴だのあるらしいけど、背骨と気持ちってことよ。というシンプルさがたまりません。
引用後半の「質問に答える」はに相変わらずハートをわしずかみにされますから、気をつけてください。

<6ページ 注意の要求 より>
人間が知覚神経を持っている以上痛みを感じるのは当たり前です。しかも注意を集めればもっと痛く感じる。
「時計の音でも注意を集めなければ聞こえないが、注意を集めると眠りの邪魔をするほど強く聞こえる。だから奥さんが注意しなかったということで、自分で自分に注意を集めるから途端に痛くなる。結局あなたはまだ大人になっていないのだ」と言ったら、えらく反発して、「自分は本当に痛かった」ということを主張しておりましたが、大人の中にもそういうように、赤ちゃんと同じように絶えず人の注意を求めて、人の注意を集めるために踊っている人達がいるのです。

時計の音から、誰でも一度は学ぶよね。学んでいるはずなんだ。

<11ページ 裡からの息みとそとからの息み より>
 下腹で呼吸していれば、花が上手に生けられるとか、剣道でも相手に強く打ち込むことができるとかいうのですが、皆お腹で呼吸をしているのです。それを何か下腹で呼吸すると丈夫になるように思って、一生懸命ウンウン気張って腹式呼吸をやっている。気張っているのと、自然に力が入ってくるのとは違うのです。この裡から自然に起こってくるものと、外から加えた力の区分が分かるようになることが、生き物に接する最初の問題なのです。
外から力を加えなくては力が入らないと決めている人は、物を扱っている人なのです。

最後のシャバアーサナのときは、ほとんどの人が何も言わなくてもできてんのよね、って話と一緒ですわね。

<51ページ 息静かに愉気する より>
 愉気をしたら翌日下痢をしたとか、風邪を引いたとかいう人がありますが、それは潜伏状態が一遍に顕在状態になったのです。体は自分の感じ方の閾値が鈍っていると感じないのです。すると相当悪くならないと感じない。ところが体が敏感になるとちょっと悪いまでもすぐ感じるのです。だから愉気をすると潜伏期が非常に短かになります。二週間、三週間潜伏期があると言われる麻疹や耳下腺炎でも、三日か一週間で徴候が起こります。潜伏期の人はすぐに症状が出てくるのです。それは体が敏感になったからだとお考えになって、そういう徴候が多くなっても、それは恢復の経路なのですから、ビックリしないでじっと愉気しているとそのまま経過いたします。

最近はこの徴候をつかまえて、人の注意を集めるために踊る人がいるんですよ、センセ。と言いながらお酌したかった。

<59ページ 子供本位の育て方 より>
 私はブランデーを飲むので、フォワ・グラという鵞鳥の胆をよく食べていたのです。ところが、その作る過程を映画で観たのです。すると、鵞鳥の口を開けて、無理矢理に食べ物を詰め込むだけ詰め込んでいる。
だから、それ以来、これは残酷物語だなと思って、フォワ・グラを食べません。ところが、自分の子供にそれをやっているお母さんがたくさんいるのです。

お酌するのはもちろんブランデー。

<62ページ 健康維持が何故複雑になるか より>
 扁桃腺が腫れて熱が出ても、細菌は平熱の三十六度五分では繁殖するが、八度、九度では繁殖できない。扁桃腺は門番ですから、細菌が入ったら腫れて、熱を出すというのは時宜に適した処置です。門番が怒って入ってはいかんと言うのは、門番としての機能を発揮しただけのことなのです。だから扁桃腺が腫れて熱が出ても、それはもっともなことなのです。

いい説明だよねぇ。いまの子どもに話すなら「警備員さんが戦ってくれているんだよ」ってとこなのかな。あんまりいい映像じゃないけど。

<85ページ 素直に無心に より>
心をからっぽにすれば、お互いに通じるのです。しかし自分を持ち過ぎていると、伝わらない。伝わらない人は、皆自分を持ち過ぎている人です。

自分の中に自分の比率が多いと、うまくいかない。

<105ページ 質問に答える より>
体の自然というものは、まだ人間が知識で開拓しない生命の秘密を皆掴んでいるのです。人間が開拓した新知識などというのは、自然の中にあるほんの一つなのです。ちっぽけなところを見つけただけのことなのです。そのほんの一つ見つけたことから人間の全部を解釈しようと考えるから難しくなって分からなくなるのです。自然というのは全部そういうことをうまく使いこなすようにできている。糖尿病にインシュリンがよいということを発見しましたが、とうの昔にインシュリンは体の中になる。また、関節炎を治すためには特殊なホルモンが要るのですが、いろいろなホルモンを合成してもまだ今日までできない。けれども妊娠するとすぐにそういうホルモンを体の中でつくってしまう。だから妊娠すると関節炎はすぐ治ってしまう。コーチゾンは高価だけれども、体の中ではただでできてしまう。副腎のインシュリンが肝臓に行けばコーチゾンに化ける。まあそういったようなことは、もし人間の体さえ丈夫で自然な状態であるならば、病気になって弱らず、病気になって体が満ちてきます。

自分でできることでも面倒くさいから、代わりにやってあげるとお金になるしくみ。

<111ページ 質問に答える より>
私が何十年続けているのは、やはり毎日人が変わるからです。
また、同じ人でも毎日言うことが変わる。今日強かったと思う人が、明日はこんなに弱音を吐いている。胃が痛いといってしょぼしょぼしているかと思ったら、そのわずかな胃袋の痛みがなくなったというだけで天下を取ったような顔をしている。同じ人がしょぼしょぼしたり元気になったりしている。言うこともやることも皆変わってくる。これも楽しいでのです。しょっちゅう皆違う。同じ人ばかりだったらそれはまいってしまう。そういうように毎日が違いますから、それで飽きずにやっているわけです。

同じ人でも毎日違うからおもしろい。同じじゃないとイヤと思うのは、おもしろがる力がないってことかもしれないね。

<141ページ 質問に答える より>
家畜の飼育法をやられていると自分で感じていないから、自分で感じたことを素直に言う人が羨ましいのが転換して、憎くなって排撃するのです。右に倣えしていれば何でもないのですが、自分の意見を持った者は排撃され、百年か二百年経ってからでないとその芽が出てこない。モーツアルトシューベルトがそうでした。バルトークだってやはりお金がないために死んでしまう。
しかし皆餓死に近い状態でも自分のものを持っていたから今でも残っているのです。日本も多分にそういう傾向はございます。

ございます(笑)。なぜそこ異常に上品な語尾?! こういう本音オブラートで歪む語尾がたまらないんですよね。
隠しきれない感じが。ジゴロだー。

<164ページ 質問に答える より>
 昔、傷病軍人がおりましたが、彼らは病気が治ったら失業なのです。病気になっていれば病院で暮らせるのです。そうして白衣も着られるのです。そこで白衣を脱ぎたがらない。病気になっても治らない。いろいろ手当しても良くならない。(中略)それは恢復が失業に通じるから治りたくない。それで治ろうとする動きと逆のことをついやってしまう。
(中略;ここから交通事故で頸を痛めた人の話、頸の動きの経過説明に及んで)三ヶ月経ってというのは事後処理のいろいろな心理的な問題の現象と思うのが本当だろうと思うのであります。

いまのお医者さんはこういうのをどうやって指摘するのだろう。

<173ページ 質問に答える より>
としを取って腰が曲がるというのは一体何だろうかと。体のせいだろうか。ひょっとして私が胃袋を働かせるとか泌尿器を働かせるとかいう方法をとって腰を伸びるようにするというのは、私自身の一つのドグマではなかろうか。本当はそういう心の形ではなかろうか。そう思いました。まあ、どちらにしても伸びるものです。

このいつになくシリアスな「・・・私自身の一つのドグマではなかろうか」のあと、「まあ、どちらにしても伸びるものです」って! 植木等の「・・・てなこと言われてその気になって♪」ってやつ(ハイそれまでヨ)みたいだよぅ。
というのはさておき、にしても「私自身の一つのドグマではなかろうか」にはやられた。カルマではなくドグマですよ。どこまでも謙虚で客観的なんだよなぁ。

<174ページ 質問に答える より>
 そんなわけで、この腰の曲がりというのは何も体が曲がったから、骨が曲がったから曲がるのだとのみ思い込む必要はないのです。卑屈な気持ち、食いしん坊な気持ち、余分に働いた、こんなにくたびれましたと人に見せたい気持ちがそうさせる。

スッパリ。

<177ページ 質問に答える より>
苦しまない人はいないのです。余分に苦しめば余分に楽しみもあるのです。生きていることが活発になれば、苦しみもまた多くなるのです。

光の強さと影の濃さの話。

<191ページ 質問に答える より>
細胞が水で腫れているというそれだけのことに、「膿疱」などと漢字で書くと難しい字ですから病気も難しいのだろうと思い込んで、そういう面を強調している。「膿疱」なんて普段使われないあまり書き慣れた字でないのに非常に巧妙に書いてありますが、病人的欲求だと思うのです。

ジゴロを超えると男は何になるんだっけ? ルパン?

<207ページ 背骨で呼吸する法 より>
 背骨の中の脊髄の中心管で呼吸するつもりで呼吸するがよい。この内観呼吸法を活元呼吸という。活元運動のあと、一、二回行うことが最もよい。しかし電車の中でも歩いている時でも自由に行ってよい。(中略)息が通れば力は出て来るし頭はさえる。寝床で行えば熟睡して短時間で覚めて、溌剌と起きられる。

すばらしい文字数でまとめてくださっています。



以下はちょっと長めの引用なので最後にもってきました。
質疑応答への回答が精神病院でのエピソードに繫がっていく場面。

<153ページ 質問に答える より>
 私は以前、松沢村にそういう病院があった時分に行ったことがあります。そこで将棋を指しているのを見ていましたら、角が真直ぐに行ったり、飛車が斜めに行ったりするのは当たり前なのです。銀が真直ぐ下がったり、金が斜めに下がったりやっているのです。しばらくして一人が便所に行ったのです。そうしたらやっている相手の男が、「どうですか頭のおかしい人の将棋は」「勝手なことをやっているものですなあ」などと言うのです。
だから将棋のルールを知っているのかと思ったのです。ところが自分でも勝手なことをやって、「こうやっていれば詰まない」なんて言って。王様を隠してしみあっているのです。片方はそれを知らないで攻めている。今度はそう言った男が便所に行った。そうしたらまた向こうが、「どうですか頭のおかしい相手の将棋は。全く見ていて可笑しいでしょう。ルールも何もありゃあしませんよ」などと言っているのです。両方とも自分は狂っていないつもりなのです。
 だからこの女の人が狂っている自覚がないということも不思議ではないのです。質問した人がその人の異常を治す、病気を治す、狂っているから愉気してやるという考え方を持っている間は拒否します。
そうでなくて、例えばいい子だからと撫でてやったとしても抵抗はしませんね。頭が狂っているという前提で、それを治すために押さえるなんていうことを考えるから可笑しいのです。
多分やる人の考え方が変わると。ひとりでに相手も変わると思うのです。同じ人間ですから気が狂っても本能的な心は狂わないのです。だからそういうものと感応するものがあるはずです。
 私はずいぶん気が狂ったという人に会いましたけれども、誰も私の前では狂わなかったし、狂っている最中に行っても顔を見ると一緒にニコニコしてしまって、普通になっておりました。「先生が来ると普通の顔をする。先生がいなくなるとすぐ狂う」と言っていましたが、そうではないのです。その人達が狂ったものとして扱おうとしている。私は狂っていないものとして本当の心を打ち開け合い、話し合うからそういうことに遭わないのだろうと思うのです。だからこういう場合には、まずこのご質問なさった方自身がご自分の頭に愉気をする。

子供のころ、近所でダメ人間扱いされていたおじさんが、ものすごく持つのがむずかしいバランスの重いものをニコニコしながらひょいと持って運んだときの事を思い出した。ただ大人だから力があるというのではなくて「これなー、コツがあんだよ、ほれ」みたいな感じで、「かっこえー」って思ったのだけど、きっと「かっこえー」と思う子供にだけ見せる一面だったんだろうな。
ということをふと思い出した。
「どうでもいい」と思うことはけっこうあるのだけど、「それのなにがおもしろいの?」という気持ちは、いやなオトナへの一歩かもしれないな。


なんでも自然にながめたらいいんだよ。
ことさらにそれをつまみあげて間違い探しをするようなことは、しなくてもいいんだよ。
野口先生はそういうことを言っているように思う。



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