うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「シェアする」って、だれの動詞?

ロールケーキ
盛岡のかたの日記を読んで、おもしろいなぁと思いました。
「シェアする」という言い方について。世にも奇妙な「ポジティブ・コーティング」の話。


定性的なことに使うときには、いっけん便利なのだけど、
定量的になった瞬間に、ものすごくリアルなことになる。



ここで、彼女は「切り分けられていないロールケーキ」をまな板に乗せました。


うまいねぇ。
脊髄反射で「キレテナーイ!」と明るく言えないのが日本人。


奥ゆかしいですからね、日本人は。
切り分けて具体的物量が可視化されて、やっと、受け手の享受物が明確になります。
切り分けたりその量が可視化できないもの、「○○性」や「質」といわれるものは、受け手の器の大きさや感度によってその量が決まる。目に見えないものです。


切り分けられていないロールケーキは、まだ器の大きさが定められていない状態。
リアライゼーションという「めんどうくさいこと」をやることが、「サービス」。
サービスって、めんどうなことなんです。
だから、仕事になる。
だから、おもしろい。


こういうことを曖昧にしないことが、「丁寧さ」とか「まごころ」として伝わる。そういうものではないかと思う。


「○○な時間(や空間)をシェアしました」

「○○な時間(や空間)をシェアしましょう」


前者は、「相手にとって、どうなのか」が欠けている。「おしつけました」でも「差し上げました」でもないというだけ。
後者には、「おいでください」という肝心な「意向の表明」が欠けています。



仕事でよく見かける「シェアしてください」。
これは、大人っぽく、表現をうまく利用していると感じます。受け手が主導。「隠すなよ」と。


このブログでたまに感謝表明の言葉で見かける「シェアしてくれて、ありがとう」。これも、受け手(読み手)の意志を現わしたもの。それを心地よいと感じるのも不快と感じるのも、そこからはこちらのバトン。



受け手が発するときには意志があり、
そうでないときは、なんかヘン。
そこが違和感。



こういう意志のやりとりが曖昧な取引というのは、よほどの信頼関係がない限りは軽々しく取り扱うことができないものだと思うのだけど、対応はしなくてはなりません。それが生活というもの。



 「シェアする」って、
 パスタとピザをひとつずつ頼んで両方食べるようなとき以外に使う場面
 プライベートである?



「それがどこで、誰の中で発生したものなのか」ということが曖昧な投げかけを「どうスルーしていくか」。
大人になることが少しわかってきたような気がするこの頃ですが、大人になることはなにも成し得ないことのようにも思えるこの頃です。