うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

潰れないこと

生きていればそりゃあつらいこともあります。なんてことをあらためて書こうというわけではなく、震災という出来事がひとつのタイミングとしてあるなか、ここ数週間くらいでバランスを見失ってしまう人や、バランスがギリギリな感じで頑張っている人の状況が表面化してきました。

うちこ自身も先週は珍しいくらいの休みっぷり不調っぷりで、身近な人には崩れた感じに見えたようですが、熱が出たりするのはむしろ健康だなぁと感じています。(肺炎かと思うくらいでしたが)
容れもの(身体)に事象を反映してもらえると、よけいなことを考えずにこころも頭も休めるので、いいんですね。

ここのところ表面化してきたさまざまな痛みや古傷について、うちこはこんなふうに感じています。
これは、誰かと対話するときもそうだし、自分自身と対話するときも同じ。書きだすと長くなりがちなネタなので、短文の連続で要約を試みます。





痛みを分かち合っても、「痛み」そのものは、なくならない。
でも、みんな痛みを分かち合う儀式をする。



みんなで痛んだら、痛みが少し減ったような「気がする」ことを少しずつ積み上げて、痛みに立ち向かう。



もし分かち合う相手がいなかったら「潰される」と思ってしまうかもしれないことを、「潰れない」という自己意思に変えてくれる力。



「わたしたち、潰されたよね」という儀式もたくさんある。力にならない儀式。



「潰れた」「潰された」。「事象」と「他責」。



少し先のことを考えれば、すぐにわかること。
「潰れたけど復活しました」
「潰されたけど復活しました」
いつかのその日に、自分はどっちの宣言をしたいか。



「潰れない」ための生命の力や知恵を分かち合うことは、みんな生きものだから、きっとできる。ときにむずかしく、うまく言えないときもある。
言いようがないときもある。
沈黙するだけのこともある。



でも、「潰された」となると、分かち合うための「生命の力」で使えるものはおそらく皆無で、「知恵」はわざわざダークサイドから引っ張り出してこなければならないことになる。



近くで思い悩む人を見て、「自分にできること」を探そうとするのが、人のやさしさ。
でもそのやさしい気持ちのアウトプットのために、なにかや誰かを悪者にすることは、やさしさではない。