うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

日本辺境論 内田樹 著 「辺境人は日本語と共に」の章から

本編への感想は後日書きます。
本編も面白かったのですが、最終章の「辺境人は日本語と共に」がなかでも爆裂面白かった。普段なんとなく感じていたことや、仕事をする場面で「こういう技術って、評価されにくいんだろうな」と思うこととシンクロしたんです。


はじめの『「もしもし」が伝わること』については全文を紹介します。

<「もしもし」が伝わること 全文>
(前文からの流れで)というような説明は日本語話者にはたぶんすらすらとご理解いただけるはずです。別に高校の国語の時間に習ったとかそういうことではなくて、日本語を使って生きていれば「人称代名詞の選択というのは、そういうものだ」ということが血肉化しているからです。
 代名詞の選択によって、書き手と読み手の間の関係が設定されます。ただの代名詞ですから、文章のコンテンツとは関係がない。「関係がない」はずですが、実際には代名詞で中身まで変わってしまう。場合によってはまったく違うことが書かれてしまう。日本語というのは、そういう言語なのです。
 一人称代名詞は何にするか、文章は敬体か常体か、男性語か女性語か、そういう初期設定が決まらないと、私たちはそもそも語りはじめることができません。想像的に設定された書き手と読み手の関係によってコミュニケーションの内容が限定される。発信者と受信者が「どういう関係であるか」(親疎か、上下か、長幼か、性差が)は「何を通信しているのか」よりもしばしば優先的に配慮される。

「文章を書くのが苦手」という人は、まず最初の「人間関係環境設定」のところでつまづくのだと思う。



つづき

 言語学では、メッセージそのものと、メッセージをどういう文脈で読むべきかを指示する「メタ・メッセージ」を区別して考えます。メタ・メッセージはメッセージの読み方について指示を与えるメッセージです。電話口での「もしもし」とか、教師が「後ろの方、聞こえてますか?」と言うようなのはメタ・メッセージです。コミュニケーションが成立しているかどうかを確認したり、コミュニケーションを延長したり、打ち切ったり、あるいはコミュニケーションの解釈について、「これはたとえ話です」とか「これはジョークです」とか「これは引用です」とか、読者に指示を与えるものはすべてメタ・メッセージです。
 書き手の人称代名詞や常体敬体の使い分けで、書かれるコンテンツまで変わってしまうと私は書きましたけれど。それは言い換えると、日本語ではメタ・メッセージの支配力が非常に強いということです。例えば、日本人はコミュニケーションにおいて、メッセージの真偽や当否よりも、相手がそれを信じるかどうか、相手がそれを「丸呑み」するかどうかを優先的に支配する。もちろん、どんな言語でも、メッセージの発信者と受信者の関係がどういうものか(二人は仲がいいのか悪いのか、それは上位者からの命令なのか、下位者からの懇願なのか、などなど)はコミュニケーションのあり方を決定する重要な条件です。けれども、それにしても、コミュニケーションの最初から最後までそのことばかり考えているという国語は希有でしょう。

プレゼン資料を作るのが上手な人というのは、このメタ・メッセージへの意識が違うと思う。そしてこれは、「空気を読む」とか「媚びる」とは全く別物なのだけど、この違いがわからない人が、意外にも多い。「環境設定」のセンスが「構成」「章タイトル」などにあらわれる。


わたしはいま、25歳くらいの若者たち8人と一緒に仕事をしていて、そのメンバーの中にひとり、格段にこのセンスがいい子がいる。
「資料の作成のアウトプットは、彼(A君)に任せたい。どんな場面で必要とされるどんな資料かということを理解して作れるから。各内容のメッセージを決める分解作業は、B君に任せる。二人でお願い」と役割分担をしている。A君とB君は同期で、国語係・算数係、のようなペアになっている。この二人がペアを組むようになってから、格段にプロジェクトのレベルが上がった。

こういう感覚をうまく表現できる機会がなかったので、この本から「メタ・メッセージ」という言葉を教えてもらったことが、すごくうれしい。A君の能力を彼の上司たちに伝えるとき、「彼は読解力が高くて、必要な場面のために要素を削るセンスが抜群」と言ってはきたのだけど、伝えきれていなかった気がするんです。なので、この内田樹さんの文章を使わせていただこうと思う。


コメントが長くなりましたが、さらに続き。

 私たちの国の政治家や評論家たちは政策論争において、対立者に対して「情理を尽くして、自分の政策や政治理念を理解してもらおう」ということにはあまり(ほとんど)努力を向けません。それよりはまず相手を小馬鹿にしたような態度を取ろうとする。テレビの政策議論番組を見ていると、どちらが「上位者」であるかの「組み手争い」がしばしば実質的な政策論争よりも先行する。うっかりすると、どちらが当該論件について、より「事情通」であるか、そのポジション取り争いだけで議論が終わってしまうことさえあります。自分の方が「上位者」であることを誇示するためには、いかにもうんざりしたように相手の質問を鼻先であしらって、「問題はそんなところにあるんじゃないんだ」と議論の設定をひっくり返すことが効果的であるということをみんな知っているので、「誰がいちばん『うんざり』しているように見えるか」を競うようになる。お互いに相手の話の腰を折って、「だから」とか「あのね」とかいう「しかたなしに専門的知見を素人にもわかるように言ってあげる上位者の常套句」を差し挟もうとする。
 少し前の総理大臣は記者会見でも、あらゆる質疑応答において「質問する記者は何もわかっておらず、私の方が当該論件においては熟知している」と印象づけることに知的リソースのほとんどを投じていました。たしかに彼はいろいろ数字や法案名を挙げたりするのですが、それはその数字法律そのものに意味があるからではない。そうではなく、「そのような数字や法律を知っている私」は「知らない君たち」よりも政策的に正しい選択をするはずなので、質問とか(ましてや反論とか)するのは時間の無駄であるというメタ・メッセージを伝えるためでした。

こういう場面、テレビでなくてもたくさん見ます。「私の方が当該論件においては熟知している」というメッセージが絶え間なく続くのだけど、その場で求められている状況に対して「考えていない。考えが及んでいない」という、ニーズ対応の弱さに対して指摘をすると、きれいに崩れて感情的になったりする。いろいろな場面が思い浮かぶなぁ。



次も同じく、「辺境人は日本語と共に」の章から。これは一部抜粋です。

<不自然なほどに態度の大きな人間 より>
 質問と回答は私たちの社会では「正解導く」ためになされるわけではありません。それよりはむしろ問う者と答える者のあいだに非対称的な水位差を作り出すためになされています。


(中略)


 日本語的コミュニケーションの特徴は、メッセージのコンテンツの当否よりも、発信者受信者のどちらが「上位者」かの決定をあらゆる場合に優先させる(場合によってはそれだけで話が終わることさえある)点にあります。そして、私はこれが日本語という言語の特殊性に由来するものではないかと思っているのです。

同感。なので、問答が「あたたかくて知的なエンターテインメント」にできる人って、本当にすごいと思う。


<日本語がマンガ脳を育んだ より>
中世のカバリスト、アブラハム・アブラフィア(Abraham Abulafia,1240-1291?)はヘブライ語字母の組み合わせによる瞑想法を体系化した人です。深夜ただ一人、庵に閉じこもって、白衣に身を包み、ろうそくをあかあかと灯して、忘我状態に入って、ひたすら文字を書くというのがアブラフィアの推奨する瞑想法でした。

リキタ・ヨガですね。書くことは自分に向き合う瞑想の時間であると思う。



この章を読んみながら、なぜか「お父さんのためのワイドショー講座」という文字列(と、山瀬まみの声)がやたら頭に浮かんだ。「知らなくても、いいんですよ」という前提でのプレゼンテーションとして飛び込んできた、初めてのフレーズだからだと思う。
わたしは若者たちに、職場で「おじさんたちにもわかるように」(経営マネジメント層にも、という意図)とよく言うのでそれが刷り込まれてしまって、最近彼らが普通に「おじさんたち」と言っているのがおかしい。「うっかり言うなよ」と思うのだけど、案の定先日うっかり言った子がいて、会議は爆笑の渦。
これからは「お忙しい上層部のみなさまにもわかるように」と言い換えなくちゃ。



最後におまけ。
内田樹さんの「Simple man simple dream」、面白いです。

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内田 樹
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5 日本人のある地点からの眺め
4 日本人の立ち位置は?
2 がっかりしました。
3 好みが分かれる本、というか著者
5 レビューで言われるほどヒドクないですよ