うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

カルマ・ヨガOSに、サラリーマン・アプリを乗せる

昼寝しようと思ったら、前衛芸術的な写
普段思っていることがいろいろあるなかで、金曜に職場のボスがおもしろい表現をしていました。
本来は「仕事に対して必要な能力を、このようにとらえてね」という話をされたのだけど、「あ、わたし、そうじゃないかも」というオチになっちゃいます。ヨガの世界の人たちを見て、たまに思うこと。
(写真はたまたま昼寝の合間に撮れた、妙に前衛芸術的なショットです ^^;)


まずは、きっかけの話から。
ボスはみんなに、仕事人としての存在のしかたが、こうあって欲しいとおっしゃった。


 サラリーマンOSに、この業種での職務技能というアプリを乗せるような感じ


ものすごくわかりやすかったし、面白いこと言うなぁ、と思った。よく、とても素敵な表現をしている。ちょっと男くさくて暑苦しいときもあるのだけど。
そしてすぐさま思った。



わたしの場合、
カルマ・ヨガOSにサラリーマン・アプリを乗せてる感じなんだよなぁ。
この業種での職務技能は、それぞれのアーサナへの対応みたいなもんだなぁ。
対になるアーサナ(相対する技能)もセットで必要になるし…。



ボスの言うサラリーマンOSの機能の基礎は「読み・書き・話す」ができること、だったのだけど、カルマ・ヨガOSには「奉仕」が基本機能。手足を動かしている身体があるところの主体(自分)を主役にしない。それは乗り物。そのうえでサラリーマン・アプリを動かしたので報酬が貨幣でもらえる。という仕組み。
休日には別のアプリを乗せたりする。ヨガ友のコンディションを整えるようなことをしたり、師匠に頼まれれば初心者さんの横でアーサナ・サンプルもやる。説明を求められれば説明をすることもある。



ヨガの世界を見ていると、たまにこのOSとアプリが連携しておらず、「ヨガを教えているわたし」が主役になって、完全にアプリだけを商品として見せられたような指導者に出くわすことがある。
「デモ版か」と納得はするのだけど、それに群がるマーケットがヘルシーだったりナチュラルだったりスピリチュアルに連鎖していく。それはそれで需要と供給が成り立っているのだろう。市場にこたえたアプリなのかもしれない。でも、全体感でとらえると、明らかに市場は飽和しているように見える。


ここで感じる違和感は、OSがカルマ・ヨガである前に、観られる人になりたいのかな? という感じ。
マッチョになりたかったり、モデルのようになりたくてヨガを始める人がいて、そこに向けた商品としての指導をするのであれば


 タレントというOSに、ヨガアプリを乗せてみました♪

 アスリートというOSに、ヨガアプリを乗せてみました♪


というスタンスのほうが気持ちがいい。
OSがあいまいなままスピリチュアルなことを語られると、聞かされているような気分になってしまう。



そしてヨガをしていなくても、


 継続OSに、○○アプリを乗せてます


というような人はいっぱいいて、ヨガでなくても華道とか楽器とか、なにかを続けている人とお話しをするのが楽しいのは、このためだ。シーケンシャル哲学、のような話になる。


「人」ではなく「空間」を主体にした場合


 コミュニティというOSに、ヨガアプリを乗せてみましたよ♪


というのも、いい。
「人間という生き物は、孤独がつらいのです」という場面を助けるOS。



ふたり人が集まったら、それは「組織」だといいます。(組織=二人以上の分業の仕組み)その場の指揮を担った瞬間から、マネジメントが始まる。
相手を主役にするスキルって、大切だよなと、そのへんのヨガOLは思ってみたりするのです。