うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

いろいろな文体をアーサナのように楽しむ

ヨガのお友達に、英語翻訳のお仕事をしている人がいます。ここでもたまにコメントをくれる、写経仲間でもあるピロエちゃん。
今日は午前の時間を英語でヨガの勉強をする時間にあてていたのですが、同時に彼女も翻訳の缶詰ワークをしていて、わたし
が亀の歩みでシュリー・オーロビンドさんのテキストを訳していく過程で思うことに、コメントをくれました。(会話調に変換します)


うちこ:Hathayogin …… gigantic effort …… とかでてくると、生うちこ感覚では「ギガ努力せにゃいかん」という訳になるんだけど、ブログに書くときにはそれを日本語から日本語に翻訳するんだ。
ピロエ:「ギガ努力」版の翻訳のほうが読みたいよ(笑)
うちこ:うん、すごく狭い範囲でだけど、わたしの一次翻訳版は需要あるかも。ちゃんとした日本語にすると「修行リアリティ」が薄れてしまうのよ。
ピロエ:絶対需要高し! だよ。やっぱ翻訳ってのは、英語力より、その分野の知識&日本語変換能力。


英語と猪木師匠的な修行根性ユーモアがわかる日本人ヨギには、わたしがそのまま「アキバ系ファミコン世代OLヨギ」の言語で公開しても、軽はずみではない奥行きまで汲み取った上で楽しく読めるんだろうな、と思う。彼女が期待しているのはその楽しさだろう。マニアックすぎるけど。
でも、女性ファッション誌の特集で実践なき「スピリチュアルなこと♪」の記事が刷りまくられている昨今、生うちこ訳の公開は非常にリスキーです(笑)。


彼女が言った、最後の行のことばに話を戻す。


「翻訳ってのは、英語力より、その分野の知識&日本語変換能力」


わたしは読み書きの英語力ってとこで非常に苦労をしてはいるのだけど、途中で普通に差し込まれるサンスクリット語やkumbhakやchittaなどのヨガ用語・哲学用語は苦にならない。もっと英語がわかったらどんなに楽しいだろう、と思うこともある。


でも、翻訳となると、もうひとつ必要になるものがある。


  日本語変換能力


この説明はわかりやすかったとかそうでなかったとか、そういうのはここに依存するところが多いと思う。
これまで何人かのスワミの本を訳してみたけれど、おっしゃっていることはどれも膝を打つような内容だ。でも、英語で読んでいるとそこにはキャラクターがあって、かわいかったり、軽やかだったり、インテリジェント風味だったり、てんでばらばら。


今日はシュリー・オーロビンドさんのテキストを訳していたのだけど、この人はインテリジェント風味がめちゃくちゃ強いのと、同じことの言い換えが一文の中に織り込まれるシークエンスがくどい(笑)。ああもう、伝えたい伝えたい伝えたい…… こうでこうでこうで、こうだからこうなのね(ここまで書けば、わかるじゃろ)、という感じだ。ユーモアが少ないので、逆にたまに出てきたときのリアクションも大きくなるのだけど、訳す修行度はかなり高い語り口だ。(参考日記


この人の英文を訳しながら、今日ひとつ、気づいたことがある。
哲学的な英文書籍を訳していると、村上春樹みたいな日本語になる理由がものすごくよくわかる。
ということ。
「呼吸を続けることについて語るときに僕の語ること、みたいなこと」になる(笑)。
「・・・について学ばせていただいた」という精神で語られることが多い哲学の世界では、主語が二重三重に折り重なった層になる。だから、こういうことになる。中間の層を端折ると、厳密には違うことになってしまう。


そのうえで、あえて逆方向の翻訳スタイルをとろうとしてみた。そうすると、かなり決めつけ感が強くなって、日本人のみなさんが苦手とする「宗教色」ってのが強くなる。
読み手の固定概念や、ダークサイド寄りに舵をきってしまいかねないキーワードの組わ合せを避けることとか、とにかく「正しく伝えたい、この感じ」のためにクリアしていかなければいけない障害がとても多い。時流とか読者層とかさまざまなメディアでのそのワードの使い方とか、とにかく神経症的に妄想しだすときりがない。


 いろいろな文体を、アーサナのように楽しめるようになりたい。


今のとことは、ここまでだ。感じるまでだ。