うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

人間的強さ・人間的脆さ 加藤諦三 著

人間的強さ・人間的脆さ 加藤諦三 著
これも古本屋で富豪買いしたなかの一冊。過去に紹介した『「思いこみ」の心理』『「うつ」になりやすい人』と同じ著者さんの本です。

以前の紹介の最後に『「ノイローゼ」という言葉が使われなくなってから、こういうトーンで書き続けている人は少ない気がする。沖先生の言葉を現代的に仕上げてくださっている、ヨギには興味深い本』と書きましたが、この本も同様のテンション。
わたしは「ふっかつのじゅもん」で「ノイローゼ」という言葉をいまいちど社会に戻したらいいと思うことがある。普通に生活をしているだけで、少し不安定なのではないかと思う人の心に触れる機会には「軽いつき指」とか「ささくれ、剥けちゃった」とかってのと同じ頻度で出くわす。
なのでこういう本を読んで因数分解を理解しておくのは、健康法のようなもの。当たり屋に当たったときも、「当たり屋だ」ってわかる。自分の持っている因数がゼロでないことも、わかる。


この本の著者さんは、みずから劣等感で神経症になっていた時期があることを、最後のほうで語っていらっしゃいます。

<207ページ 「思いやり」は心につけるクスリ より>
 優越感と劣等感は同じコインの表と裏というが、その通りであろう。優越感はいつも卑屈さと二人づれなのである。


(中略)


 私自身若い頃、劣等感で神経症になっていた。知力、体力ともに劣等感を持っていたし、自分は愛されるに値しないと信じていた。

この表裏の見かたにたどりつくには、両方わかることが大切なんだなと思う。うちこも、ものすごい破壊衝動という因子を持っていたなと回想できる時代がある。それは今も完全にはなくなっていないと思うけれど、それでも、バランスしながら楽しむ術を得た気がします。積み重なっていくパワーを分散させられずに、重さに耐えられなくなるような、執着恐怖症のようなもの。それが今はうまくバランスできるようになっていると、自分では思っています。ヨガのおかげね。


この著者さんの本に共感をするのは、きっとこういうことがあったうえで書かれているからなんだろうな、と思う。
引用紹介を続けます。

<53ページ 負けを逆利用する生きかた より>
 私も十代、二十代、そして三十代の前半まで神経症的な人生を送った。私のまわりにはずるい人がいっぱいいた。私は、それらの人に利用され、もてあそばれて生きた。身近な人であればあるだけ、その人たちのずるさは見ぬけなかった。
 私が身近な人のずるさを見ぬけずに長いこともてあそばれつづけたのは、私自身が自分の人間としての本質的な弱さに気づいていなかったからである。自分の弱さを認められなかったからこそ、身近な人のずるさを見ぬけなかったまでのことである。
 自分が人間としてまともでないことがわかってきてはじめて、身近な人間のずるさが見えてきた。だいたい、ずるくてずうずうしい人間が身近にたくさんいるということ自体、その人がまともな人間ではないということをあらわしている。
 病理集団といえばすぐにヤクザを思い出す人が多いが、この世の中には私の見るかぎり、それ以外にも数えきれないほどの病理集団がある。
 病理集団の構成要素は「ずるさ」と「弱さ」であることが多い。心理的な意味で自分の人生がどうもうまくいっていないという人は、自分の属している集団は病理集団ではないかと反省してみる必要があろう。

「自分の弱さを認められなかったからこそ、身近な人のずるさを見ぬけなかった」というのは、うちこもとても、よくわかる。そして、自ら「わかった」と認識したのなら、病理集団的な場面と感じるときに、どうバランスするかということに知恵を使うべきだろう。
「選ばれた戦士たち」みたいな病理集団的な集合場面に自分の身体がポツンとがかれていると感じるときが、そうだ。そんなものは、ただ組織を機能させる(そうすれば、よくなると仮定して動いている)上でこなす臓器としての存在位置がフローしているというだけのこと。でも、病理を生み出す因子的なできごとは避けられなかったりする。心はいつも、健康でいたい。

<94ページ 「自分」をよりどころにする より>
 自我が確立している人というのは、すぐに他人に影響されないし、失敗した場面においても自分に対する基本的信頼感があるから、とり乱したりはしないものである。自我の基盤がしっかりしている、つまり同一化の過程がうまくいっている人は、いつも安心感をもっているから、どのような状況でも適切な行動ができるのである。
 自我の基盤が不安定な人は、ちょっとした刺激でも、カッとなって内面の心理が混乱してしまい、適切な対応ができなくなる。自分の思うように状況が展開していかないと、すぐに心理的に緊張がたかまり、パニックにおちいる。


(中略)


 自我の基盤の不安定な人は、他人の言葉にすぐに影響され、その気になり、そして失敗して損害をこうむり、パニックにおちいる。健全な自我同一性の展開をしてきた人なら耐えられるような、いや何でもないような小さな損失に対してさえ、とたんに限界状況に追いこまれてしまう。

他人の言葉にすぐに影響される人は、うちこの周りにも多くいる。影響されるのが問題なのではなくて、その内容を身体で認識する前にそうなってしまう、「すぐに」という部分が問題。
なので、「すぐに」への危険性を感覚的につかんでそれを避けるために相談に駆け込んでくる人には、全力でこたえる。

<121ページ 無力感・無価値感にどう立ち向かうか より>
 自分の中に力強さを感じることができない人は、関係にすがって生きようとする。それだけにいつも見捨てられる不安を持つ。
 見捨てられる不安を持つものは、どうしても攻撃性を外にあらわすことができない。攻撃性をあらわすと見捨てられると思っているからである。甘えも攻撃性もすべて内におさえて、ビクビクしながら人と接することになる。


(中略)


 他人によく思われることとか、他人に優越することによって自分に対する自信ができるわけではない。自分の心理的奴隷性に気がつくことである。

自信などと言うのはそんなことでは生まれなくて、やっぱり「継続は力なり」ななにかがあったほうがいいと思う。「見捨てられる不安」を「見捨てられるのが当たり前、でも今はつながっている」の連続に変換していくようなことだ。ヨガはいいぞぉ(笑)。

<127ページ 「自分を責めないでほしい」より>
 相手に申しわけない、すみませんといいつつ、心の底からの叫びは「もっとやさしくしてほしい」ということであろう。「なんでもっとやさしくしてくれないんだ」というのが、心の底からのうめき声であろう。
 相手に合わせることだけで生きてきた人の心の底の叫びは「私を責めないで、私をそんなにせかさないで、あなたが私に合わせてくれたっていいじゃない」ということであろう。

うちこは仕事仲間のヤングに「敬語に敬語を重ねまくって、かえって失礼じゃ」と指導することがある。コミュニケーションの上で「くずすバランス」を考えて同調のための努力をすることを放棄したような仕事の仕方で三十路を越えるときついから。

<128ページ 同上 より>
 他人の自分に対する期待や要求に自分を合わせているあいだに、生きることの意味を感じることができなくなってしまう。自分を生きていないものは、いずれ生きることの無意味感に苦しみだす。
 そしてその無意味感から自分を救うために、有能とか無能とかにこだわる。そしてこれにこだわることで、よけい自分の能力を発揮できなくなる。
 テニスが楽しいからテニスをするというボルグや、ゴルフが楽しいからゴルフをするというニクラウスなどは、そのスポーツに集中できる。しかし自分を救うために自分の能力にこだわるものは、ものごとに集中することができないであろう。なぜならそのようなものは、失敗が許されないからである。
 それが楽しいからそれをするという人は集中できるし、失敗しても、その失敗が惨めさにつながらない。しかしそれを通して自分の価値を他人に証明しようとしているような人は、失敗すると惨めになる。それだけに、ものごとを前にして不安な緊張におそわれる。

「自分を救うために自分の能力にこだわるものは、ものごとに集中することができないであろう」といった趣旨のことを、師匠に言われたことがある。うちこはヨガに向いているのだそうだ。ものすごくシンプルな日本語で教えられた。「うちこちゃんはイイネ。余計なことシナイ」と。最初は意味がわからなかったけど、今はわかります。
「イイ」という表現は「期待しない」ことをさす時に使われます。「あの人には近づかないほうがいい」といった趣旨のこともたまにさりげなく指南されるのだけど、だいたい名を狩るような因子を持っている人だったりするのでドキッとします。

<134ページ 自信を育て心を強くする より>
 女らしい女性は好かれるし、女らしくなくても自分を受けいれている女性は好かれる。嫌われるタイプというのは、表面に誇示しているものと心の底にある感情とが逆の人である。自分の女らしさに自信がなくても、自分は女らしさに自信がないということを自分にも他人にも示している人は嫌われない。
 つまり、女らしさに自信がないということで嫌われるのではなく、その自信のなさを隠すことで嫌われるのである。自分の女らしさに自信のない人で、それを隠す人は、どうしても逆に女らしさを誇示することになる。

うちこは最近、この領域を通り越して「中のオッサン」のほうが人気者になりつつある現状について、いかがなものかと思い始めましたよ(笑)。

<136ページ 同上 より>
 自分に自信のある人しか、相手をほんとうに励ますことはできない。自分に自信のない人、ことに自信のなさを隠しているような人は、口では励ませても、無意識のレベルで相手を憎んでいることが多い。そのような場合、口で何をいっても励ましではなく、相手はより高い基準を押しつけられたような気持ちになる。励まされたほうは、かえってストレスが高まるだけである。

「励ましていただかなくて、けっこうです」という人って、実際多いと思います。逆に「励まして欲しいんですか?」という展開になる。励まさないけど。こういうのは、銀座のNo.1ホステスさんの本とかを読んだ方がわかりやすそうだ。

<156ページ スーパーマンでなるしかなくなる より>
 好きではないけれど、いろいろな心理的障害もあってひかれあっているという時には、自分の相手を他の人々と比較して考える。また比較して相手を傷つけようとする。
 しかし好きな場合には、相手を他の人々と比較してみるということはない。相手が好きなのであって、その人がAさんよりも美人だから好きなわけでもないし、その人がBさんよりセンスがいいから好きなわけでもないし、その人がC君より男らしいから好きなわけでもないし、その人がD君より背が高いから好きなわけでもない。
 好きな人より美人な人がたくさんいることを知っているし、ハンサムな人がたくさんいることを知っている。知っているけど、それは自分にとってなんの問題にもならないのが好きという感情であろう。

これは、じっくり考えます。考えるような機会があればですが。

<163ページ のりこえられない心の壁 より>
 自然の流れに逆らった人間の意識的努力というのは、何のよい意味も持たないどころか、逆にその人をより傷つけるだけである。
 自分の中の自閉性に気づくことは、対人関係をスムーズにするためには大切なことである。


(中略)


 自分の心の中にそのように一切外に通じることを拒否した障壁のあることを認め、自然と内側からあいてくることを待つより仕方ない。そのような障壁のあることに気がつけば、内側から自然とあいてくるのも間近いのである。

「自然と内側からあいてくることを待つより仕方ない」というのは、本当にそう思います。

<186ページ 不安感・孤独感の脱出口 より>
 この世の中には、愛情飢餓感を心の底に持つがゆえに表面だけの友達だちをたくさんつくり、いかにも満ちたりている「ふり」をしている人が多い。ところがその周囲にいる人は、みんな心の中に葛藤のある人ばかりである。
 そのような「ふり」をやめることである。自分には友人など一人もいないということを正直に認めるところから、心の不安の解決の糸口が見つかってくるのである。
 近い他人の価値を値引きして心の葛藤を解決しようとしている人にとって、心の底で愛情飢餓感に苦しむあなたはカモなのである。

いまはすごい時代です。「近い他人の価値を値引きして心の葛藤を解決しようとしている人」向けに、ソーシャルなネットサービスという修行道場がいくつもあります。

<194ページ 幸福感を生む人間関係 より>
 自分を弱い立場や被害者の立場において、他人の助けを借りながら実は自分のエゴを通していくというようなことをしていると、いつになっても自分の中に力強さを感じることはできない。

こういうのは、日本語の使い方に如実に現れる。だから、読書はたくさんしたほうがいい。いろいろなタイプの本を読んだ方がいい。読書は予防医療です。

<203ページ 強くなることが目標 より>
 楽しみで人とつきあっている人は友を選ぶからこそ、選ばれることも許している。そのように自由につきあったからといって、決して相手に失礼になるわけではない。自分を大切にしている人は、相手の人格も大切にしてくれる。

ほんと、そうねぇ。うちこは友達として対応する・しないのジャッジが明確すぎてドキドキするってよくヨガ仲間に言われるけど、失礼にしているつもりは毛頭ないんだ。

<212ページ 第一に自分で自分を傷つけない より>
(ガソリンスタンドでのサービスを受ける時を例に)

 自分で苦労して働いたお金で車にガソリンを入れてもらうのだから、そんな時「すみません」という必要はない。しかしそれが寒い冬の日だったらどうであろう。ガソリンスタンドの人が寒さにふるえてガソリンを入れていたら、やはり「ありがとう」という感謝の気持ちで接するのがあたり前ではなかろうか。
「俺だって苦労して働いた金だ」というのが事実だとしても、それだから相手も必要もないのに苦労しろということにはならない。

そう。「だから相手も苦労しろ」ってのはまったく成り立たない不条理。職場につい長居してしまう人とか、少し考えてみた方がいい。「おまえも苦労しろ」って言われている妄想に、自分でとりつかれに「行って」ないかな。

<217ページ 劣等感は伝染する より>
 こちらに心からの自信があればもちろん傷つかない。しかし黙ってもったいぶって座って、無意識に相手を傷つけようとしているような人も世の中にはいる。
 内的に相手を拒絶し、なんとか相手を破壊しようとしているような人だって世の中にはいる。もちろんその人自身、自分の心の底から目をそらしている。その人の心理的な姿勢が根源的に他人を受けいれていないのである。

「黙ってもったいぶって座って」のところは大企業に最近ありがちな光景で、承認をするような会議の場で発表者の話を聞かないでiPhoneをいじっている人とか、もう論外。なにをやってるかわからないアクションというのは、そこに居たって開店休業状態だから。

<228ページ 成長人間の条件 より>
 親が自分の要求を満たすこと以外をしようとした時、そのことで親に抗議できた子は幸せである。今自分はこうしてほしいのだ、こんなことをしてほしくないのだ、とはっきり親のある面を拒絶できた人は幸せである。


(中略)


 小さい子が、本を読んでくれと要求する。それに対し、「今日は幼稚園で何があった?」と質問したとする。
 そんな時「そんなことどうでもいいから早く読んでよ」といえる子は幸せなのである。自分の心の必要性を満たすべく、相手のある態度を拒絶できるからである。

これは、「なるほどなぁ」と思った。うちこは、ヨギのかーちゃんにちょっと面白い育てられ方をして、こんな子になった。その話はいつか、切り出して書いてみよう。

<234ページ 自己実現の原則 より>
 もし人間が生まれた時から精神的にひとりで生きられるのなら、他人に敵意など持つことはないであろう。ひとりで生きられるのなら、他人に自分の存在を認めてもらおうとして、自分の心の必要性を犠牲にする必要などないのだから。


(中略)


 実際の自分の心の内面に直面することが神経症にならないための第一歩である。自分は小さい頃から心の必要性を犠牲にして生きてきたということに気づけば、その人はその人の環境の中でどうすればよいかわかってくるのではなかろうか。
 たとえばどういう人とつきあったらよいか、どういう人と別れたほうがよいかなどということも、自然とわかってくる。

そう、結局は内観しないとはじまらないのです。外に求めても、はじまらない。むしろよくない知人の構成比が増えてしまいます。


こういう本の感想では、ついどさくさにまぎれて日頃の愚痴がコメントにくっつきがちなのですが、それも普段の怒りの要因の内観のような作業なんですね。
自分が元来持っている弱い部分も再認識できて、イッキ読みしちゃいました。

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5 我が人生のバイブル