うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

怒らないこと アルボムッレ・スマナサーラ 著

スマナサーラ長老のコメントや記事は、仏像展などで目にしたりしていて、とても強い言葉でユニークな語り口のかた、というところまでは知っていましたが、本を手に取ったのは初めてです。
これは、このまま同僚にも貸せる、とても親切に書かれた本です。
読んでいて、「自分だったら、こう言うかなぁ」と気持ちの表わし方を照らし合わせる瞬間があったり、「ここだけ切り取ってシンプルに語るチョイスをされている。どうでもいいあげ足とりも想定済みなんだろうな」なんて思いながら読んだり、構成も楽しんで読みました。もったいつけずに小見出しがオチになっているのも仏教的。


いくつか、引用してご紹介します。

<19ページ 「暗い感情」(dosa)が強くなると「怒り」(vera)になる より>
 怒りがすごく強くなると、自分の歯もジリジリと噛んだり、拳を握ったり、筋肉が震えたりする。そんな「強い怒り」には、パーリ語はvera(ヴェーラ)という単語を使います。パーリ語には、怒りについてこの他にもまだたくさん言葉があります。勉強になりますから、いくつかご紹介します。


 Upanahi(ウパナーヒー)は怨みです。いったん怒りが生まれたらなかなか消えなくて、何日でも何ヶ月でも一生でも続くことです。


 Makkhi(マッキー)は、軽視する性格だと覚えておきましょう。いつでも自分のことを高く評価して、他人のよいところを軽視して見る性格です。人の才能・能力・美貌・体力などの長所を認めたくなくて、何か言いがかりをつけて軽視するのです。これも怒りなのです。


 Palasi(パラーシー)は、張り合うことです。他人と調和して仲良く生きることができない。いつも他人と競争し、倒そうとする気持で、他人に打ち勝つ気持で生きている。まわりの人々に対して挑戦的なので、結果として張り合うことになるのです。これも怒りです。


 Issuki(イッスキー)は、嫉妬することです。他人のよいところを認めたくない気持ですが、そのエネルギーを自分の内心に向けて暗くなるのです。


 Macchari(マッチャリー)は物惜しみです。俗にいうケチということです。ケチであるならば欲張ることではないかと思われるかもしれませんが、本当は違います。自分が持っているものを他人も使用して喜ぶのは嫌なのです。分かち合ってみんなで楽しみましょう、という性格ではないのです。ですから暗い性格です。したがって物惜しみは怒りなのです。


 Dubbaca(ドゥバッチャ)は、反抗的ということです。いつまで経っても人は完璧にならないものです。だから我々は他人から学んで、他人の指導を受けて成長しなくてはなりません。他人から学ぶことは、本当は死ぬまでやらなくてはならないことなのです。しかし、他人にやるべきことをあれこれと言われると受け入れがたく、拒絶反応が起こる。これも怒りです。


 Kukkucca(クックッチャ)は、後悔です。後悔するのは格好いいことだと勘違いしているのです。反省することとは違います。過去の失敗・過ちを思い出しては悩むことです。かなり暗い性格です。性質の悪い怒りなのです。


 Byapada(ビャーパーダ)は激怒です。異常な怒りという意味でもいいでしょう。何も理由がないにもかかわらず、怒ることです。理由があって怒った場合でも、その怒りは並外れて強烈なものです。人を殴ったり殺したりする場合の怒りは、この怒りなのです。

怒りというカレーに含まれるスパイスを分解してみたよ! という感じの、まるでレシピ。それぞれが、こんな下ごしらえをされている。
「人のいいところを認めたくない」という気持ちの種類が、いくつにも分解されている。


<49ページ 嫌なことを反芻してさらに不幸になる より>
 赤ちゃんは、花を見たら笑うし、お母さんにきつく言われたらすぐ泣くし、それで終わってしまいます。すごく心の中はきれいです。過去の嫌なことを、ぐちゃぐちゃと反芻したりはしません。誰の頭も、赤ちゃんのように柔らかでいて欲しいのです。
 でも、大人は違います。嫌なことをしつこく覚えておいて、思い出したりして、そういうろくでもない概念をまた延々と回転させるのです。

シュリ・シュリ・ラビ・シャンカールさんも同じことをおっしゃっています。


<54ページ エゴ→無知→汚れ→怒り より>
 仏教では、正しいことを実行することがいちばん大事なのであって、「部下だから」とか、「課長だから」「社長だから」「家の主人だから」とかいうことは一切関係ありません。気にするべきなのは、「その行動が正しいか正しくないか」という点だけです。
 たとえ子供でも、正しいことを言ったらみんなで認めて実行するべきです。「子供のくせに、生意気ではないか」などと言う人がいたら、その人こそ無知な間違いを恥ずかしがるべきなのです。
 怒りを考えるうえで、エゴはいちばん大きな問題です。そして、エゴというものは一度つくったら、いろいろなゴミがついてくるやっかいなものです。エゴから無知が生まれ、ありとあらゆる汚れがついてしまうのです。そしてその汚れは、外からの攻撃を受けると怒りに変わるのです。

エゴの木枝が燃えはじめる前に、水をまいて木を湿らせなければいけないのよねぇ。


<86ページ 相手を倒す前に自分が壊れる より>
 怒ることは、自分で毒を飲むのと同じことだと思ってください。わざわざ、自分自身で毒を取って飲む必要はないでしょう? ですから、怒りを治めるためにまず必要なのは、「怒ると、自分を壊してしまう」と理解することなのです。

怒ると、本当に肝臓が腫れたりしますからね。毒なんです。


<111ページ 突然、人に殴られたらどうする? より>
完全なる悟りを開いて阿羅漢になったということは、「実体=エゴ」が頭の中にもまったくないということです。一瞬一瞬の無常に完全に気づいている「ヴィパッサナー」の知慧で生きているのですから、たとえぶたれても、サーリプッタ尊者にとっては、それはある瞬間、物質が物質に触れただけのことです。そこで痛みが生まれても、心は痛みを感じて、「あっ、痛み」というだけで終わりということになります。「私は痛い」とか「私はぶたれた」という発想は、無意識のところにもありません。だから、そういう態度でいられるのです。

そう、「私は」は自分で発生させている実体なんですね。ジョージ・ハリスンそれを歌にしています


<118ページ 怒ったら、起こらないこと より>
 お釈迦さまの経典を研究している学者の方々が、間違いなく仏説だといっているテキストがあります。そのお経は「Suttanipata」といいます。お釈迦さまが生きていたときも内容をぜんぶ覚えていて、「私は昔、こういうことを言ったではないか」と引用しているのだから、間違いないそうです。
 このテキストは、日本では中村元先生が『ブッダのことば』(岩波文庫)というタイトルで訳しておられます。
中村先生の訳は簡単でわかりやすいのですが、それは先生がすごい知慧を駆使して、わかりやすく書いているからであって、内容はけっして簡単ではありません。でもぜひ読んでみてください。
 そのいちばん目が、怒りに関する偈なのです。


 Yo uppatitam vineti kodham

Visatam sappavisam va osadhehi

So bhikkhu jahati oraparam

Urago jinnami va tacham puranam


「蛇の毒が(身体のすみずみに)ひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者(比丘)は、この世とかの世(スマナサーラ註・この世とあの世、いわゆる輪廻のこと)とをともに捨て去る。── 蛇が脱皮して旧い皮を捨て去るようなものである」(中村元訳『ブッダのことば』岩波文庫より)

思い通りにならないことを、繰り返し認識し続けることが「怒りを制する」ひとつの手法だと思う。


<120ページ 脱皮のように「怒り」を捨て去る より>
 ここで言っているのは「怒りが生まれたら、それをコントロールする」ということです。やり方は、「薬で、猛毒をなくすように」です。つまりどのようにするかというと、からだに怒りが生まれたら、それを蛇の猛毒のように考えて、すぐ薬で消してしまうのです。その「怒りをなくす薬」は何かというと、それは仏教の修行の世界の話になります。
 次に「どのように捨てるか」という説明が出てきます。「蛇が古い皮を脱皮するように、怒りを脱皮してください」。仏教では、怒りのことを「猛毒だ」と言っているのです。このことは、現代に生きている皆さんにもすんなり信じることができるでしょう。
 日本でも、あるお医者さんが本に書いていました。「怒ったり、欲張ったりすると、からだから悪いホルモンが出て、からだを壊したりするんだ」と。そういうふつうの人が書いて、その本がベストセラーになるとみんな信じるのに、お釈迦さまが言うことはなぜかあまり信じようとしないのです。ですから、ここは怒るべきところなのですが、怒ってはいけませんね。だから私も怒りません。
 重要なことは、いちばん古いと言われている経典の最初に、「怒りを死ぬくらいの猛毒として見てください」と書いてあるということなのです。

先のコメントの続きのようになりますが、やみくもにニーチェの「脱皮できない蛇は滅びる」を唱えてみても、脱皮の瞬間を身体で覚えないと、実際は難しいと思う。


<132ページ 怒る原因がないときは誰でも立派 より>
 二、三週間、修行のためにお寺に入ったとします。それで、修行を終えて、本人が「心が良くなった」と思っても、それは本物ではないのです。「良くなったかそうでないか、社会に戻って確かめてみろ」ということです。みんなが自分のことを褒めているときに怒らないのは、当たり前ですね。そういうときに「私はあまり怒りません」などと偉そうなことを言うのは感心しません。条件が揃えば、すぐに怒ってしまうかもしれないのですからね。
 怒る条件が揃っていないときに怒らないのは、べつに褒められるほどのことではありません。本当に「怒りがない」ということは、怒る条件が揃っていても怒らないことなのです。みんなにけなされているときでも、ニコニコできることなのです。

そう、ほんとうに試される瞬間は、日常ではない。「事なかれ主義」で均衡が保たれている時間の方が圧倒的に多いから。ものすごく意外なタイミングで意外な球を投げてくれる人は、貴重な師だと思います。


<135ページ 何があってもびくともしない心をつくる より>
インドの譬えです。
 昔は、懐中電灯というものはありませんでしたから、葉っぱなどを結んで、そこに火をつけて持っていきました。人がその小さな松明を持って、ガンジス川に行って、「ガンジス川の水を緩めて、ぜんぶなくしてやろう」と思って、自分の松明をガンジス川につけてしまったら、どうなるでしょうか? まさか、ガンジス川の水が暖まって沸騰してなくなるなんてことはありませんね。ただ松明が消えるだけです。
 ですから他人から何か言われたときには、「私は何を言われても、ガンジス川のような心で接します」というふうに落ち着いているのがいいのです。

そんなにうまい譬えとは思わなかったけど、でも、メモしたいと思いました。
仕事で喩え話にガンジス川をよく使います。みんなが自由意思でその場に集って均衡が保たれているところで、一部の由々しき場面を見てリスク妄想を膨らませ、全体のバランスや魅力をくずすような行いがされるとき、「カオスというバランスに本当に目を向けている? ガンジス川みたいじゃないの。カオスって、すごいバランスでしょ? 死体が流れる横で、身体を洗っている人もいる。行為はぜんぜん違って見えるけど、そこには祈りがあるのよ」と。
まずは「全体観」や「存在の力」について自分なりの認識をもったうえで、言われたことを考えようね、というようなことを言いたいのだけど、ガンジス川と言った瞬間に「ああまたか」という顔をされます(笑)。


<143ページ 怒りを観られた瞬間、怒りは消える より>
 怒りが消えると、すごく気持がいいのですよ。たとえば頭が痛いときに鎮痛剤を飲めば、痛みは消えて、霧が晴れたように気持ちよくなるでしょう? それと同じで、怒りが消えたら、すごく気持ちが良くなるし、元気になれるのです。すぐに幸福を感じられるでしょう。
 そこまでいくと自分にも自信がついてきて、「あっ、怒りが消えちゃった。我ながら自己コントロールがうまいものだ」と自分を褒めてあげることができます。そうなれば、いつでも怒りの感情に悩まされることなく、おだやかに人の話を聞いていられるのです。
 怒りを治める方法というのはそれなのです。すぐ自分の心を観ること。心を観ることで怒りはすぐに消えます。いろいろなことをやらなくてもいいのです。簡単で、瞬時にできることなのです。心理学の知識もカウンセリングも、まったく必要ありません。
 いちばん大事なことは、「自分を観る」、ただそれだけです。このことをしっかり覚えておいてください。

そう、いつだって、自分を救ってくれるのは、自分。自分を観たときに、外側にいる人がちゃんと認識できるか。どんなふうに自分の中に都合よくそれを取り込んで逃げようとしていたのか。
つらいリアライゼーションだけど、とても大切。続けていると、そのつらさのほうが「もう二度と味わいたくない」ものになっていく。自立って、こういうことだと思う。


<145ページ 怒ったら「自分は負け犬」と言い聞かせる より>
臆病で弱くて自信がない人ほど、偉そうに怒るのです。怒る人というのはすべて、自分にはまったく自信がないし、社会に堂々と胸を張って生きていられない人なのです。なんでも怖がる腰抜けというか、間抜けというか、そんな性格なのです。自分の中身のなさを知られたくなくて、みんなに怖い顔を見せて近寄りがたくして、負け犬の遠吠えをしているだけ。虚勢を張って、格好をつけているのです。
 会社の偉い地位にいても、部下をさんざん叱ったり、怒鳴ったりする人がいるでしょう? あれはまったく中身のない空っぽな人で、人格なんてものもありません。すごく頭が悪いから、それで怒るのです。もちろんけっしてまともなリーダーではありません。
 ですから、まずは覚えておいてください。「怒る人は、負け犬以外の何者でもない」ということを。

以前吠える犬について書いたことがあります。このとき、ちょうど上記にあるような人のことを思い浮かべていたのだと思います。


<172ページ 怒りではなく「問題」をとらえる より>
 怒る人は負け犬です。知性のかけらもありません。たんなる怒りで動く肉の塊です。
 逆に、自分の心に芽生えた怒りを瞬時に察知して、怒らないでいられたら、素晴らしいことが起きます。


(中略)


 ポイントは、相手の怒りや言うことにとらわれずに、問題だけを取り出して解決することです。「こんなに口汚く怒るなんて、良くない人間に決まっている」などと思ってはいけません。「悪いのは、その人でなくて怒り」なのです。ですから、(複数の人で話しているとき)「その人はこういう感情でしゃべっている。この人はこういう感情でしゃべっている。けれど実際のところ、問題はこういうことだ」と考えて、「問題はこういうことですね? だったら、こういう答えではどうだろうか」という話し方をするのです。自分の立場や都合、意見は捨ててしまいます。みんながなんのことはなく受け入れてくれます。

「照れ」というエゴが、まずはじめに立ち向かうべき課題なのかもしれません。


<198ページ 他人が吐いたゴミを食べる必要はない より>
 怒っている人の状態は、何かひどいものを食べておなかを壊して吐いているのと同じなのです。その人の言葉や行動は溜まっている毒を出しているだけですから、きれいになって落ち着くまで、思う存分出させてあげましょう。「あの人が吐いたものを食べて、私までおなかを壊す必要はない」という態度でよいのです。

「なにも人のゲロ食わんでもいいじゃろ」って、わかりやすいなぁ。



辛口カレーにも甘口カレーにもできる題材。バランスで調理されている、ひとつの選択が積み重なった本だけど、この本には、どんな生活、仕事をしている人にとっても、こころに刺さる言葉があると思います。

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