うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガの王国(「裏がえしのインド」西丸震哉 著 より)

裏がえしのインド
先日「裏がえしのインド」という本の感想を書きましたが、今日はそのなかの「ヨガの王国」という章から内容を抜粋紹介したいと思います。
ヨガの王国というのは、リシケシにあるシバナンダさんの「The Divine Life Society」のことで、著者さんがそこへ行かれたのは、シバナンダさんがお亡くなりになる2年前ごろ。非常に貴重な記録です。
全くヨガに興味がなかった人の視点で描かれています。
以下はすべて同じ章からの抜粋です。「生き神様」と書かれているのがスワミ・シバナンダ師。

 インドでは一番はじめに訊ねられる言葉は「ドコカラ来たか?」という質問で、これは失礼なことなのだが、今まですべてそうだった。ところが、このアシュラムに住むヨガの生き神様の弟子は、これをいわなかった。
 「よくおいでになった。今夜の泊り場はあるか?」
 発音の立派な英語で、政府高官にヒッテキする。泊り場がなくて困っているというと、「こちらへ来い」といって、山の上へトコトコ登って行き土間ではあるが二室をあけてくれた。
 「何か要求があるか?」ときかれたから、生き神様に会い、ヨガを知り、修行を見たいのだというと、なんでもしてあげるといって帰った。インド人にものをたのむと、すぐ引き受けるが、絶対にやってくれたためしがないので、アテにしなかったら、この道場だけは世界のどこよりも信用できるところであることがあとでわかった。
 カナダ人の医者が、ここに数ヶ月間住んでいて、すっかりヨガの精神になってしまっており、とび入りの無関係な日本人達に対して、献身的な奉仕をしてくれた。これもあとでわかったことだが、こういうのが奉仕ヨガというグループである。
 夜になると、生き神様のデレエとねているまわりに弟子どもが集まるので、そこへカナダ医者が案内してくれた。室の欄間には『善人であれ』『善行をしろ』『奉仕をしろ』というモットーが書かれていた。
 生き神様はスリ・スワミ・シバナンダというドデカイ人物で、長椅子にデーッと横になっており、怪僧の部類に属する感じだが、人なつっこい顔をしてて、遠来の客に眼で答礼をし、きれいな英語で、「ネルーに会ったか、それはよかった」といった。

奉仕ヨガのグループ・ワーク。リアルな印象記録。

 朝は五時になるち、ヨガの行者は体操をはじめる。さか立ちしたり、尻で立って足をふりまわしたり、われわれでもどうにかやれるものが多いが、特に極端なアクロバットは体操の先生だけだ。この体操は胃腸を整えて、ムダな神経を腹から解放し、精神統一するのがねらいであるらしい。人間がいろんなかっこうをするのを、ジャングルの猿達が横目でながめている。
 朝食によばれて、きたない建物に入ると、奉仕ヨガのコックの親分がいて、「サアサアそこに座ってくれ、いくらでも食べてくれ」とニコニコ。給食ヨガは、人に食べさせるために献身的にサービスする連中だ。
 ヨガの行者達はほんの少ししか食べないし、またあてがわれない。あんまり食べると太ってしまって、身体をゴチャゴチャにする体操ができなくなるし、胃がもたれると心の集中がむずかしくなるからだ。ここの親分は太っていて、「ややこしい体操はできなくなったが、やってみせろというのならいつでも見せてあげる」といったけれども、とても気の毒でたのめない。

まるで永平寺

 カナダ人医者が、音楽ヨガの連中のところへ連れていってくれた。
 窓のない暗い石の一室に、音楽ヨガの先生スリ・スワミ・ヴィジヤナンダ師が、門弟に歌を教えているところだった。ひざに、南インドのヴィーナという弦楽器をだいて爪弾きしている。


(中略)


 口うつしで弟子に歌を教えるのだから相当に時間がかかるようで、よほどガマン強い先生だろうが、これも奉仕ヨガの一種だから懸命でやっており、しかもけっこう楽しんでいるようでもあった。
 サンスクリット語で斉唱しているのは、なかなか荘厳な感じでいいものだ。
 歌は、かなり近代的でリズミカルで、楽しくなるようなのもあり、覚えたいという欲望がドッと湧いてきた。


(中略)


 先生は、外国客が一回きいただけでまさか覚えられようとは思わないから、こんなものだとやって見せただけのつもりらしかったが、私は写譜した五線紙とにらめっこして先生のやった通りに歌ってみせた。


(中略)


 私はおぼえたてのヨガの歌がすっかり気に入ってしまい、まるで子供みたいにだれかにきかせたくてしょうがない。
 生き神様は昼寝の時間だというのに、日本人に会いたいとおおせられているときいて、早速伺候し、ここでおそるおそる足もとに進み寄り、「実は今、ヨガの歌を一つおぼえてきたので、これを奉納したいと思いますが、いかがでしょうか」と、きいた。生き神様は面白がって、ぜひやってみてくれといった。私は用意の五線紙をとり出して、
「オムナマ・シバヤ・オムナマ・シバヤ……」
とブギ・ウギのリズムでいい調子になって歌い終ると、生き神様がきいた。
「実に上手である。いつ覚えたのか」
「つい今しがた、ヴィジヤナンダ師のところへ行って教わって来ました」
「それはまた非常に早いことである。ここの連中はなかなかおぼえられないでいるが、日本人は頭が特によろしいのか」
「そうです。日本人はすぐに消化吸収して自分のものにしてしまいます」
 生き神様と高弟たちは、ホウとうなずきながら感心していた。
 私は生き神様にウソをついてしまったなと思った。
 私は近頃、特にものおぼえが悪くなってきて、人の名前や新しい単語はもとより、必要なことすら頭へ入らなくなって困っているのだ。
 生き神様はウソを知ってか知らないでか、ウンウンとうなずいていたが、私はこれに対してあまり良心のカシャクを覚えなかった。

著者さん、譜面に落とせてしまうの。すごいです。(譜面が載っています)
ブギ・ウギで、オーム・ナマシバーヤ♪ とは!(笑)

 このアシュラムの人達は、少しも無理をせずに善人になり、奉仕に徹していた。病人をなおせる人は付属している病院に勤め、料理が好きな人はコックになり、ホータイを巻くことしか出来ない人は一日中ホータイ巻きをする。つまり自分の奉仕できる能力において好きなだけやればいいのだ。
 その報酬は食うこと寝ることの心配が何もいらないことと心が清らかになることだけだ。われわれのような、客に属する人は奉仕をする必要がないが、何か出来ることがあればすることは自由で、金が余っていたら献金してもいいが、しなくてもいい。さんざん食って、寝るところを与えられても、それに対する支払いは要求されないし、その名目で金を出しても受けとってくれない。われわれは何も役立つことができないので、生き神様にトランジスタ・ラジオを献上した。
 ヨガの空気を吸入しただけで、今までカッカ、カッカしていた日本人達は一人を除いてすっかり心を洗われてしまい、おおらかになり、善行をしたくなり、感謝の念をいつも持つように変化してしまった。

ヨガの教えって、やっぱりこのように奉仕の精神に着地してはじめて、伝達といえる気がします。


「奉仕の心」を伝えてきた老舗道場の記録です。
ありがたや。