うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「ゆとり暴力」と「ポジティブ・コーティング」

少し前の話になりますが、仕事仲間とリラックスしながら話すなかで出てきた、ふたつの言葉が印象深いので書き留めておきます。
週末、たまに道場の帰りに仕事仲間りつこの家に立ち寄ってごはんを食べます。行く前の週末に予定が合うと「なに食べたい?」ときいてくれるので、だいたい素材を言います。りつこは料理ヨギ。料理しながらカルマ・ヨガしてる。
食事をしながら、けっこう真面目な話もしたりする。
そんななかで出てきたのが


 ゆとり暴力


という言葉。
これは、わたし口から出た。
ふたりとも先月、大学を出てきたばかりのヤングに話をしたのですが、そのリアクションのなかに「"僕はほめられれば頑張れるタイプなのですが、〜"という出だしで始まるレスポンスがあって、それがわたしにとってはなんだか暴力的に感じたんだ。ゆとり暴力」といったら、なんだかわかるよ、と言ってくれた。


このレスポンスを受けながら同時に思い浮かんだのは、シュリ・シュリ・ラビ・シャンカールさんが言っていた、この言葉。


 モリーというのは、10の褒め言葉をもらっても、1の侮辱で上書きされてしまう。エゴはそれほどに、強いものだ。



こういう話はひらけた人(と話していて感じる相手)にしかしないようにしているので、「誰だって、欠点を言われるよりは、褒められる方が気持ちいいですよね」という言葉までにしておいた。



もうひとつは、これもなにげない展開からの会話だったのだけど、これまた仕事仲間の大滝君と少し話したときに、彼から出てきた言葉。


 ポジティブ・コーティング


ちょっとアーティスティックな人なので、自然にこういう表現が出てくる。
お互いに感じている、仕事の場面で出てくる「根拠のないポジティブな発言」について。「"前向きです!" という姿勢は時として暴力的で、"こわい" と思ってしまうことがあるんだ」と言ったら、
「そこでポジティブ・コーティングされてしまうと、ヤバいんではないかということについて話したいとき、少し戸惑う」と言っていて、「なにか前向きなテイストをアピールしなければならない強迫観念を解くところからはじめないといけないのね」と。


ここで言っている「こわい」というのは、「紐解いて立ち向かっていかなければいけない場面から実は逃げている状況であることが隠されてしまうこと」で、陰陽の「陰の目線」がフィットする仲間と話していると、お互い「いまそれ言おうと思った」の繰り返しになる。


「褒められたら、がんばります!」
「そうか! 前向きに行こうぜ!」
 ・・・「どこに? 行き先、わかってる? 障害も周到に避ける準備は、できている? そのためのリアルな作戦、立ててる?」


この最後のツッコミを上手に、まるで「聞いているだけでほめられているように響くマントラ」のように唱えられるかどうか。それが修行だと思うと、仕事場は毎日通いたくてしょうがない道場になります。滑らかに響かせていこう!(根拠ある前向きですよ)