うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

インド文明の曙 ― ヴェーダとウパニシャッド 辻 直四郎 著(10章)

インド文明の曙 ― ヴェーダとウパニシ
昨日の続きです。今日は「第10章 ウパニシャッド」を紹介します。
ウパニシャッドの教えはヨーガのなかに頻出するのですが、非常につかみどころのないものというか、「無について、そこに意味づけをしないで語り続けるインド人のアレ」というふうに感覚的に身体の中に置いていたのですが、あながちその感覚は間違っていなかったようであることが、この本を読んでわかりました。
うちこがヨガを続けてきて自分自身が変わったな、と思うこと。それは「実体験を重ねながら意図的に認識を繰り返して体得した知識は、絶対的に書物のお勉強とは違うノリのものである」ということが、「ヨガ以外の範囲に応用されていく日常」のなかにあらわれたりする。ということ。


ここ1年くらいよく使うようになった「運動神経的に理解する」という表現が自分的にもっともしっくりいくのですが、自転車に乗れるようになったらまた乗れるのと似ています。インド哲学も、多くの表現に触れまくって自身への刷り込みを続けていくと、どこかの段階で「理解したとかしないとかではない、この感じ」というのがあって「そこに意味づけをしないで語り続けるインド人のアレ」がしみついてくる。哲学というのは、全般そういうものなのかもしれません。
人が仲良くなったりする「共感」のヒミツも、そこにあるように思います。趣味が合う人なんてのはわんさといるわけで、一瞬盛り上がって終わったりする。そのなかでもさらに仲良くなれる人というのは、そこへの向き合い方のスタンスの根底にある「運動神経的に共感するアレ」がある。



本の話に戻しますが、この本を読んでいたときの自分のメモに、こんなのがありました。


  禅は古代ウパニシャッド的。空海さんは新ウパニシャッド的。


そのとき自転車に乗っていたうちこちゃんのメモです。そのときの自分に聞かないと厳密なことはわかりません。上記の事がこの本にずばりと書いてあったというわけではなく、いろいろあって、こんな印象をもったようです。梵我にフォーカスしたか、気息も重視したかとか、そんなことです。


ではでは、いつものように、本編から引用する「うちこメモ」いきます。


<159ページ>
ウパニシャッドは概して短く、韻文のものもあり、散文のものもあるが、主題に統一のあるのを常とするから、普通、次の五群に分類される。

(一)古代ウパニシャッドに発達した一元哲学をそのままに継承して、これを簡潔に叙述するヴェーダーンタ主義のもの、

(二)一元哲学に立脚しつつ、静坐観法による精神統一の解脱の方法として重んじるヨーガ主義のもの、

(三)悟証のため或いは悟証に達したのち、慾念を棄てて遁世遊業の生活を送ることを讃美奨励するサンニアーサ主義のもの、

(四)ヒンドゥー教最高神シヴァを、ウパニシャッドの根本原理と同一視して崇拝するシヴァ主義のもの、

(五)同様にヴィシュヌ或いはその権化を崇拝するヴィシュヌ主義のもの。古代あまねくインド人の尊崇を集めているバガヴァッド・ギーターもこの傾向の所産である。


(中略)


 ウパニシャッドの基本をなす教義を一言に要約すれば、大宇宙(自然界)の本体と小宇宙(個人)の本体とは同一であり、この真理を悟って生死の繋縛から離れて解脱するにある。


(中略)


特筆すべきものは、プラーナ(「気息・生気」)とプルシャ(「人・自我・個人の本体」)とである。前者はアタルヴァ・ヴェーダに始まり、ブラーフマナ文献、古代ウパニシャッドを通じ、個人の中枢、生活機能を主宰する生命力として重んぜられ、アートマンに匹敵する地位を保った。プルシャは有名なリグ・ヴェーダ讃歌以来哲学的意義を与えられ、後ますます重要視され、個人の本体としてアートマンの別名と見なされるにいたった。
 しかし古代ウパニシャッド以来哲学の術語として安定し、後世への影響力が強いのは、ブラフマンアートマンであった。ブラフマン(梵と訳す、中性語)とは元来祈祷の文句ならびにその神秘力を意味し、祭式万能の気運につれ、神を左右する原動力と認められ、アタルヴァ・ヴェーダおよびブラーフマナ文献においては、宇宙の根本的創造力の一名となった。バラモンが他の段階をしのぐのは、この神秘力を強度にそなえているからである。ヴェーダの精髄から出発したブラフマンが、万有に遍満し、否、万有そのものと同一視される根本原理の地位にのぼったのは、言語ごとに祈祷の威力を信じた特殊なインド思想に負うものと考えられる。これと並んで発達し、ついにこれと同格の地歩を占めるにいたったアートマン(我と訳す、男性語)は、元来「気息」を意味し、生命の主体として「生気・本体・霊魂・自我」の意味に用いられた。前述のプラーナならびにプルシャと当初から密接な関係にあったが、次第に原義から遠ざかり、個人の本体を表わす術語となった。
 個人の本体(個人我)をそのまま宇宙の本体(宇宙我)と同一視することは唐突に見えるが、古くから個人の生活機能と自然界の現象との相応が認められた。たとえば眼は太陽に、気息は風に対応する。この論理を徹底させれば、各個人は小宇宙であり、大宇宙の模型である。個人の本体はことごとく同一であり、大宇宙の本体と本質的に一致しなければならない。ここに個人の本体は宇宙の本体に高められ、いわゆる梵我一如の教義が成立した。アートマンを知る者は同時にブラフマンをも知る。個体の観察から出発したアートマンの観念は、一躍して宇宙的意義をもつにいたった。しかし最古のウパニシャッドは、両原理の同一性を証明しようとするより、むしろ両者の本質的一致を予測し、梵はすなわち我であるという自覚の上に、両者を同義語のごとく使用し、その関係についての精密な解答を与えていない。

最初のほうにある一〜五の分類は、いままで点在して出てきたいろいろなウパニシャッドやらヴェーダーンタやらを系統立てて分類してくれていて、本当にありがたい。
後半のまとまりは、あれですよ。こういうのばかり読んでいるから、ガンダムを見ても「わ。これヨガの話だ!」ということになってしまう。という内容のよい例。
今回「リグ・ヴェーダ」の解説書としてこの本に取り組んでみて非常によかったなと思うのが、プラーナから小宇宙へアクセスしていく行いがウパニシャッドよりもさらに昔にすでに記述されていることがわかったこと。
いままで「昔のインド人すげーな」って、紀元前500年ごろの本を読んで思っていたのだけど、なんの、紀元前1200年にはもうとっくにプラーナを感じて展開されている。ヨーガ、めちゃめちゃ古いなぁ。

<162ページ>
 梵我の本質を文字によって説明することは至難のわざである。一にして一切、相対を離れ比類を絶した根本原理は、経験の世界を去ること遠く、言語も思考も到達し得ないかなたにある。
これを積極的に描写しても、消極的に定義しても、有限の言語によって無限の実体を表現することはできない。種々な比喩が用いられ、さまざまな定義が提唱されているが、結局は日常の経験を超越した瞑想により悟証されるべきものである。次に一例として、チャーンドーギア・ウパニシャッド(三・一四)に含まれる「シャーンディリアの教義」を挙げる。


 ブラフマンは実にこの一切(宇宙)なり。(一)


 意より成り、生気を体とし、光明を形相とし、その思惟は真実にして、虚空を本性とし、一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、この一切に偏満し、言語なく、関心なきもの、(二)


 これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。米粒よりも、或いは麦粒よりも、或いは芥子粒よりも、或いは黍粒の中核よりもさらに微なり。これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。地よりも大に、空よりも大に、天よりも大に、これらの世界よりも大なり。(三)


 一切の行作を包容し、一切の慾求を具備し、一切の香を有し、一切の味を有し、一切に遍満し、言語なく、関心なきもの、これすなわち心臓の内部に存するわがアートマンなり。これブラフマンなり。この世界を去りてのち、われはこれと合一すべしと、(意向)あらん者には、実に疑惑のあることなし。シャーンディリアは常にかくいえり、シャーンディリアはかくいえり。(四)



 根本原理は一切を包括し、一切に遍満し、極小にして同時に極大である点が強調されている。矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例はイーシャー・ウパニシャッドに見いだされる。



 そは動く、(同時に)そは動かず。そは遠きにあり、しかもそは近きにあり。そは万有の中にあり(遍在性)、しかも万有の外にあり(超越性)。(五)


 しかし、万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者は、もはや疑いをいだくことなし。(六)


 その人にありて万物がアートマンに帰一し終わりたるとき、かく分別する者にとり、そこにいかなる迷妄あらんや、いかなる非憂あらんや、(アートマンの)独一性を認むる者にとり。(七)

冒頭の一文に尽きるのですが、この流れでの引用解説、すごいなぁ。
「矛盾する表現によって相対観念を止揚する好例」というのは、この著者さんの説明表現の中でものすごく光る一行。
こんなふうにヨーガを通じてインド哲学を語れるヨギなりたいものですが、うちこはまだ等身大ファミコン世代女子としてしか語ることができないので、ここはあえて身近な題材でいきます。
「万物をアートマンの中にのみ認め、万物の中にアートマンを認める者は、もはや疑いをいだくことなし。」というのは、ガンダムをあっさり乗り捨てちゃうアムロのソレですか?(参考日記akiraさんのコメント参照) とか、分別の段階はアナキン・スカイウォーカーのソレですね!(参考日記)とか、こういう解説を読んでいると、そんなことを思います。
うちこのこういう説明に親近感をもつ人は、難しくても「バガヴァッド・ギーター」を読んだらワクワクしちゃうと思う。アルジュナのアナキンっぷり、クリシュナのヨーダっぷりがもう、たまりません。

<165ページ>
 梵我は一切であり、一切に遍在し、かつこれを超越すると説かれた。しかし完全にして無垢な根本原理から、何ゆえにまたいかにして汚濁に満ちた現実世界が生じたか、或いは純粋認識を本質とする梵我から、いかにして物質的な現象界が転変してくるかは説明されていず、また満足に説明しつくされない問題である。古代ウパニシャッドの哲人は、梵我の発見に無上の喜悦を見いだし、これに比べて価値の少ない現世の事象を軽視したにちがいない。それゆえ彼らに、根本原理と現象界との関係につき、論理的に徹底した説明を求めることはできない。古代ウパニシャッドの代表的二大哲学者、観念論的見地から梵我の本質に肉迫しようとしたヤージュニャヴァルキアも、実在論的観点に立ち、いわゆる因中有果論を主張したウッダーラカ・アールニも、この点に関して満足すべき結論を提示しなかった。

「これに比べて価値の少ない現世の事象を軽視したにちがいない」というのは、これ現代でもみんな陥りがちで、以前ケン・ハラクマさんの本に、ヨガを始めて仕事を辞めようと思うとか言い出す人のことについての記述がありましたけれども、うちこもまったく同感なのです。日常を道場にできなくて、どうする。出会った人を師にできなくて、どうすると。
うちこはこれ、自分の師匠の日々の発言から学びました。おずおずと帰らざるを得ない基点から、ヤージュニャヴァルキアさんやウッダーラカ・アールニさんのような恐ろしく素晴らしい発見が生まれたりする。どうも、修行探求のための日常放棄は、種をまく畑を捨てて花屋へ行こうとするような行為に思えてしまうんです。だったら、「快楽を求めるぜ!」と言って、ガツンとロックなスタンスで転がる石のように歩き出して欲しい。実際快楽的な側面もあるからね。

<169ページ>
 梵我の発見と並んで、ウパニシャッドで始めて明朗に認められるにいたった教義に、業による輪廻がある。善悪の行為の果報に従って、神・人間から禽獣虫類にいたるまで、さまざまな形態を取りつつ生まれ変わり、生死の苦痛を繰り返すと説かれる。

(中略)

 インドにおいては最古の時代から、われわれの生命が現世の一生に限られるとは考えていなかった。しかし来世観には変遷があり、業による輪廻説が確立するまでには長い歴史があった。

来世観の歴史的変遷は、もうコレ用にスタンスを取って向き合いたい案件。死ぬまでに取り組めたらいいなぁ(笑)。

<171ページ>
 この世の生命に限りがあるように、福業によって得られた天界もまた永遠の安住所ではない。
祭式・布施の果報がつきれば再び地上に転生せざるをえない。究極の解脱に達するまでには輪廻を免れない。
 ウパニシャッドにおける解脱とは、梵我の本質を悟って、この本体と合一することである。

(中略)

 ウパニシャッドの教えるところに従えば、感覚を制御し、慾望を絶ち、禁慾に服し、瞑想によって精神を統一し、思いを梵我にのみ集中する修行が最も有効である。何となれば、慾望を離れたところに業の繋縛はおよばないからである。暗黒から光明へ、死から不死へ導くのは、梵我の悟証のみで、俗世の財宝や福利は、解脱の大理想の前に、全くその価値を失う。

(中略)

こうしてウパニシャッドの人生観は、必然的に厭世の方向をとるが、仏教に見るような深刻な無常観は発達しなかった。

(中略)

 善因善果、悪因悪果を教えたウパニシャッドが解脱を志向する者に奨励したところは、ヴェーダの学習・禁慾・祭祀・布施・苦行・断食・五感の抑制を始めとして、古来インドで尊重されてきた徳目と大差がない。これに対し無知・貪慾・放逸・虚偽・竊盗・飲酒・姦淫などが悪徳として戒められた。

「こうしてウパニシャッドの人生観は、必然的に厭世の方向をとるが、仏教に見るような深刻な無常観は発達しなかった。」ってとこが、やっぱりウパニシャッドの最大のチャームポイントだと思う。
「無常だから」をきっかけに、そこからカルマ・ヨーガの道へ展開する指導ができる道元さんみたいなグルってのは、なかなか出てこない。深刻ぶらない「言いっぱなし」がいいんですよね。ウパニシャッド
結論付けないからこそ、チャーハンの隠し味に、インドのスパイスに混ぜて和風に、なんて感じで、まるでお醤油みたいに日常の中にいちいちフィットしてくる。

ウパニシャッドって、本当に面白いですね!