うちこのヨガ日記

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インド文明の曙 ― ヴェーダとウパニシャッド 辻 直四郎 著(1〜9章)

インド文明の曙 ― ヴェーダとウパニシ
この本を読む前に「リグ・ヴェーダ讃歌」を読んだのですが、その解説に本書も併せて読むと理解が深まるとあり、帰国してさっそくこの本にとりかかりました。リグ・ヴェーダの解説本という位置づけ。
返却期限の関係と、順序的にもこちらの本のメモを先に残しておいたほうが、後にアップする予定の「リグ・ヴェーダ讃歌」の背景説明にもなるので、この本を先に紹介します。初版が1967年の本です。
訳にも諸解釈があるので、「?」とあるのも本書のまま(著者さんの「?」)です。漢字は旧字がけっこうあるので文字化けしたりするかもしれません。
今日の日記では全10章のうち9章までを紹介します。第10章はずばり「ウパニシャッド」なので、記事を切り分けて紹介します。

リグ・ヴェーダはいきなり読むにはノリが独特なのですが、インドの精神の根底を感じるにあたって、「感覚的にこういうことが語り継がれて今のあの精神がある」というのを運動神経的に理解するのにいい。「なるほど」なことも多いし、「なんでそうなのインド」というトンデモな展開とか、「それまで神にするぅ?」という展開とか、日本の「八百万の神」とはひと味もふた味も違うアレな感じがわかる。
ひとくくりにインドの古典といっても、ウパニシャッド関連の書の全盛期はだいたいが前800〜500年ごろ。
リグ・ヴェーダは前1200年。古代ウパニシャッドで前500年。「ヨーガ・スートラ」が前4世紀頃ときて、「ハタ・ヨーガ・プラディーピカー」は16〜17世紀。なんだかヨガの教典はすごく「最近」な感覚になってきます。


いつものようにメモを残します。ピックアップはいつものヨギ目線です。


■第1章 ヴェーダとは何か

<4ページ>
 古来インドにおいて、ヴェーダは人間の著作と考えられず、リシ(「聖仙」)が神秘的霊感によって感得した啓示と認め、これを総括して、シュルティ(「天啓哲学」)と呼び、聖賢の叙述たるスムリティ(「聖伝文学」)と区別する。後者は六種のヴェーダーンガ、すなわちヴェーダの補助学書、インドの国民的二大叙事詩マハーバーラタラーマーヤナ、マヌの法典、ヤージュニャヴァルキアの法典などによって代表される。

その啓示がまぁさまざまなことになっていて、面白いです。


■第2章 ヴェーダの歴史的背景

<11ページ>
種族を異にする先住民との間に行われた戦闘のほか、アリアン系諸部族相互の間にも内訌があった。最も有名な記録として、リグ・ヴェーダにはいわゆる「十王戦争の歌」があり、サラスヴァティー河(現在のサルスーティ)の上流に居を占めたバラタ族のスーダス王は、インダス河の一支流パルシュニー(現在のラーヴィー)の河畔で、西北インドの十王の連合軍を撃破したと伝えている。

地名を見て、大昔にここで……と思いをはせるにも、古すぎて想像がつかない。

<15ページ>
 産業は牧畜と農耕とを主とした。家畜としては牛が最も尊重され、インド・アリアン人の生活と密接に関係していた。財産の主要部分は牛群からなり、物価の標準とされたばかりでなく、祭式の報酬ももっぱら牛で計算された。牛は犠牲獣として神に捧げられたのみならず、その肉は食用に供され、後世のヒンドゥー教に見られる不殺生主義或いは厳格な菜食主義の風潮はなかった。牛から生産される乳やバターならびにそれからの製品は、神への供物としてまた人間の栄養として欠くことのできないものであった。いずれにせよ最も早くから牛は畜類の中で特殊な地位を与えられた。

牛はまだ食べられていたけど、ものすごくこの頃から特別な存在。リグ・ヴェーダにはいろいろな動物が登場して面白いです。


■第3章 ヴェーダ語の系統

<26ページ>
 ヴェーダ文献に見られる韻律を支配する原則は、各行の音節が一定していること、長・短の音節の配列が規定されていることである。リグ・ヴェーダの最も普通に使用する韻律は次の四種である。ガーヤトリー(各行八音節からなる三行)、アヌシュトゥブ(各行八音節からなる四行)、トリシュトゥブ(各行十一音節からなる四行)およびジャガティー(各行十二音節からなる四行)で、各行内に含まれる長・短の音節の組み合わせから各韻律独特のリズムが生ずる。

ガーヤトリーは女神の名前でもあるけれど、韻律にもそういう呼び名があるみたい。

<31ページ>
 インドでは早くから言語の霊力をヴァーチュの名のもとに神格化した。自讃の形式をとる歌で、女神は一切の神々を担い、一切のところに遍在し、一切の依所といわれ、ほとんど最高神の地歩を占めている。ヴァーチュは後に聖河サラスヴァーティーと同一化し、弁舌・学芸の女神となった。仏教の弁才天はこれに由来する。

ヴァーチュ=サラスヴァーティー=弁才天(弁財天)。メモ。


■第4章 リグ・ヴェーダについて

<35ページ>
 リグ・ヴェーダの神々の一部は、明瞭に大自然の構成要素および現象を神格化した自然神である。すでに挙げた天地両神・太陽神・暁紅神・(暴)風神・雨神・火神などはその適例である。
これらの諸神に捧げられた讃歌には、神の威徳の現われとしての大自然、或いは擬人法の背後にひそむ自然現象が明白に看取される。かつ多くの場合、神名は普通名詞としても用いられるから、疑いをさしはさむ余地がない。たとえばアグニは火神の名であると同時に普通の火を意味し、ヴァーユは風神の名でもあり、空吹く風でもある。しかし、元来自然現象に基礎をもつ神も、擬人法の発達と神話の進展とにつれて出発点から遠ざかり、その本源があいまいとなり、学者の見解の一致しない場合が生じる。リグ・ヴェーダの神界で重要な役割を演じる由緒の古い神々についてしばしば起こる問題である。

この用法がごちゃまぜで、ちょっと混乱する。

<38ページ>
 リグ・ヴェーダ以来インドで一般に神を意味する単語はデーヴァ deva で、ラテン語の deus (「神」)などと同様に、本来「輝く」ことを意味した語根から作られ、天を表わす単語と同一の起源をもっている。これに対し、後世は悪魔の通称として、しばしばアスラ asura(「阿修羅」)が用いられる。この語はすでにリグ・ヴェーダにおいて、この悪い意味を持つ場合もあったが、その古い部分では常に特殊な神格を指し、語原の上ではゾロアスター教最高神アフラ・マズダーの ahura に相当し、最初はおそらく「生気・活力」を意味したと思われる。しかし、デーヴァとアスラとは元来同一ではなく、前者は友愛に富み、温情親しみやすい神格を表わし、後者は幽玄不可思議で近づきがたく、恐るべき呪力をおびて、魔神・鬼神と一脈通じる不気味な性格をもつ神格の呼称であったにちがいない。(中略)リグ・ヴェーダの二大神格インドラとヴァルナとを比較すれば、インドラはデーヴァを代表し、ヴァルナはアスラの典型的なものである。

日本ではいま美男子として人気の阿修羅たん、めっちゃ怖いよ。


■第5章 リグ・ヴェーダの神々

<61ページ>
 火は木片或いは石片の摩擦によっても得られるので、木・植物または岩石も、アグニの出生の場所と認められ、ことに上記のアラニによる鑽(さん)火の作法は、祭式の重要な一要素となった。
アグニが木から生まれるやただちにその両親を食らうといえわれているのは、山火事の恐怖を寓したものと考えられる。なおこのほかアグニは、人体の中にも消化の火、忿怒の火、思想の火として存在する。このようにアグニはいたるところに潜み、いたるところに発見される。万人に共通する普遍の火は、アグニ・ヴァイシュヴァーナラの名で知られ、特別の讃歌の対象となっている。火は多種多様に顕現しつつも、本質的にはアグニ一神の種々相に過ぎないという観念は、後のウパニシャッドの一元思想へと進む一契機をはらんでいる。

リグ・ヴェーダには、アグニ信仰の記述がいっぱい登場します。


■第6章 リグ・ヴェーダの哲学讃歌、対話讃歌、その他

<91ページ 宇宙創造の讃歌 より>
 リグ・ヴェーダの詩人が宇宙の構造をどう想像していたかについては組織的記述がない。神話の舞台は天地両界或いは天・空・地三界に置かれ、各界はさらに細分されることもある。蒼空の上、人間の視野を絶したところに、第三天すなわち光明に満ちた最高の天界があり、神々や祖霊の住居といわれる。ある学者の見解に従えば、この光明界は環流する大水の世界で、そこに神酒ソーマの源泉があり、太陽の出没、悪魔ヴリトラ退治の神話、地上の降雨現象など、すべてこの宇宙観によって説明されるという。地界は車輪のように円いと考えられていたが、時に四角といわれたのは、明らかに東西南北を四隅と見なした結果である。

リグ・ヴェーダには、ソーマの記述がいっぱい登場します。みんな、お酒に魅了されていたんじゃないかと思うくらいに。


<99ページ>
宇宙開闢の歌(一○・一二九)
一 その時(太初において)、無もなかりき、有もなかりき。空界もなかりき、そを蔽う天もなかりき。何物か活動せし、いずこに、誰の庇護の下に。深くして測るべからざる水(原水)は存在せりや。


二 その時、死もなかりき、不死もなかりき。夜と昼との標識(日月星辰)もなかりき。かの唯一物(創造の根本原理)は、自力により風なく呼吸せり。これよりほか何物も存在せざりき。


三 太初において、暗黒は暗黒に蔽われたりき。一切宇宙は光明なき水波なりき。空虚に蔽われ発現しつつありしかの唯一物は、自熱の力によりて出生せり。


四 最初(※)に意欲はかの唯一物に現ぜり。こは意(思考力)の第一の種子なりき。聖賢らは熟慮して心に求め、有の私親縁を無に発見せり。
 ※後の文献と比較して考えれば、展開の順序は、唯一物 ──(水)── 意 ── 意欲 ── 熱力(瞑想・苦行により体内に生ずる熱で、創造力をもつ)── 現象界、となる。


五 彼ら(聖賢)の縄尺は横に張られたり。下方はありしや。射精者(能動的男性力)ありき、展開者(受動的女性力)ありき。自存力(本能・女性力)は下に、衡動力(男性力)は上に。


六 誰か正しく知る者ぞ、誰かここに宣言し得る者ぞ。この展開はいずこより生じ、いずこより来たれる。諸神は宇宙の展開よりのちなり。しからば誰か展開のいずこより起こりしかを知る者ぞ。


七 この展開はいずこより起こりしや。彼(最高神)は創造せりや、あるいは創造せざりしや。最高天にありて宇宙を監視する者のみこれを知る。あるいは彼もまた知らず。

意+欲 の記述が興味深いです。五大の要素のうち、「水」が起点になっているのも興味深い。


■第8章 アタルヴァ・ヴェーダ

<125ページ>
 インドにおいては、祭祀と呪法との間に本質的区別がない。荘厳な祭式との恋の勝利を期する呪法との間には、非常な相違があるように見えるが、共にマントラ(讃歌・呪文等)の神秘力(「ブラフマン」)と一定の行作の効果とによって、必然的に願望の成就をもたらす点においては、根本的な差別は存在しない。リグ・ヴェーダの中にもアタルヴァ・ヴェーダ的な若干の讃歌が収められ、ヤジュル・ヴェーダの規定する一群のカーミア・イシュティ(「願望祭」)は、目的・手段において、アタルヴァ・ヴェーダの呪法と選ぶところがない。最初呪法は、依頼人と施術者(時には国王と王廷付き司祭官プローヒタ)との関係に基づいたものであろうが、バラモンの手によって整備された後は、正規の祭式と同じく祭官階級の職能に取り入れられ、その公認する範囲では、呪詛も調伏も正当な行事として許された。これに反しバラモンが排斥したのは、その公認なく、ひそかに危険な呪法を行なう魔術者であった。

呪法、魔術の記載はこの頃から頻繁に登場します。後半になると、バラモンの存在が職業的に存在し始め、後半では結婚の儀式でのお仕事なども明確に記述されています。

<133ページ>
 内容について見れば、宇宙の創造を最高の一原理に帰し、そてに最高神の地位を与える点で、リグ・ヴェーダ詩人の到達した傾向を継承している。しかし最高原理の名称にいたっては、全く面目を一新している。スカンバ(「支柱」)、プラーナ(「気息・生気」)、カーラ(「時」)、ローヒタ(「紅光者」、太陽)、ヴィラージュ(「遍照者」)、カーマ(「意欲」)、ヴェーナ(「透視者」?)、ブラフマ・チャーリン(「梵行者」、ヴェーダの学習者)、ヴラーティア(正統バラモン社会の外にある種族)、ウッチシュタ(祭式の「残饌」)、牡牛・牝牛などが主要なものである。

インド哲学やヨーガを学ぶ中で頻出する単語の中で、リグ・ヴェーダにも頻繁に登場するのは、以下。
マントラ、プラーナ、プルシャ、ブラフマン、スーリア、ソーマ、ヴァジュラ、ヴァータ、アグニ、アートマン、カルマン(業・カルマ)

チッタとかはもう少し新しいみたい。3つの要素の中でも、ヴァータだけでピッタとカパは出てこない。「マントラ」「プラーナ」は本当に古くからの言葉なんだなぁと思う。

<134ページ>
 次に注意すべきは、生理的・心理的観察が発達した点で、身体の各部分や心理作用の名称が豊富に含まれている。ことにプラーナは宇宙の生気、万有の支持者として最高原理の地位を占め、小宇宙すなわち個人の主体としては、同じく「気息」から出発したアートマンに匹敵し、ここでもまた道はウパニシャッドへと通じている。
 要するに、アタルヴァ・ヴェーダの哲学讃歌には比較的長いものが多く、その規模は華麗であるが、内容はいたずらに神秘をてらい、一貫した哲学の域に達しない。時には進歩した教理を含んでいるが、たちまち平凡な呪法の雰囲気に堕し、玉石混淆のそしりをまぬかれない。
しかし夾雑物を除いて玩味すれば、これらの讃歌も、インド思想史上の重要な段階として軽視できないことが了解される。


スカンバの歌(一○・七および八)
アタルヴァ・ヴェーダの哲学讃歌中、断然他を抜く雄篇である。宇宙の「支柱」たるスカンバの名のもとに、当時問題とされた諸原理を統合しようと企てている。ウパニシャッドへの橋渡しと見られる詩節若干を選んで訳例とする。


七・一七 人間の中にあるブラフマン(最高原理)を知る者は、最勝者を知る。最勝者を知る者ならびにプラージャ・パティ(最高神、最勝者もその異名)を知る者、もっともよきブラフマンの具現者を知る者、彼らは同時にスカンバを知る。


三二(※) 地はその尺度にして、空界はその腹部、天をその頭となせるこの最高のブラフマンに頂礼あれ。


三三 太陽と常に形を新たにする月とをその眼として、火をその口となせるこの最高のブラフマンに頂礼あれ。


三四 風はその出息・入息にして、アンギラス族(半神の祭官族)はその眼となり方位をその意識となせるこの最高のブラフマンに頂礼あれ。


三五 スカンバはこの天地両界を支う。スカンバは広き空界を支う。スカンバは広き六方位を支う。スカンバはこの万有に入れり。
(※)この一説はブラフマンとしてのスカンバの讃美。最高原理は一切を包容し、一切に遍在すると同時に、一切を超越する。


八・一 過去および未来、万有を主宰し、天をその独占物とするこの最上のブラフマンに頂礼あれ。


二 スカンバに支持せられて、この天地両界は安立す。この一切の生命あるもの、呼吸し、瞬きするものは、スカンバの中に(存在す)。


二六 この美しくして不老・不死なる(神格)(※)(個人の本体アートマン)は、人間の家(肉体)に住む。そのためにこの(神格)がつくられたる者(人間)は、(すでに死し)横たわる。そを創りし者(創造神)はすでに老いたり。
(※)アートマンとしてのスカンバ。アートマンはあらゆる人間、老若男女の中に、その本体として存在する。

二七 汝は女なり。汝は男なり。汝は少年なり。または少女なり。汝は老いたるとき、杖に倚りてよろめく。生まるるや汝は一切の方位に面す。



四四 欲望なく、賢明にして不死、みずから生じ、活力に満ち、欠陥なきもの、すなわち、賢明にして老いざる常若のアートマンを知る者は、死を恐れず。 

ここは非常に興味深く読みました。宇宙自体の概念の前に、小宇宙(身体・インナースペース)についてはこんなにも明確に語られている。そして、リグ・ヴェーダには「関節」という単語が以外に頻出。
身体と心の宇宙のほうが先ですかっ?! と、わくわくしちゃいました。


リグ・ヴェーダ」は、最後に紹介した項目がまさにそれですけれども、のちにヨーガに繋がる身体宇宙観がこんなにも明確に発現していて、驚きます。そんなに昔から気息のこと考えてたのかぁ、と面食らう。
次回は同じ本の第10章「ウパニシャッド」を紹介します。