タイトルは挑発的ですが、中の解説には「まごころのあり方」が書かれています。わたしは肩甲骨を健康骨(自分で決めていいの?)と思い込んでいたくらいのおバカさんなので(笑)、「これは認識してなかった、やってたかもなぁ」と反省猿になるネタがいくつかありました。
ちょっと、きっかけがあってこの本を買いました。仕事で人の文章をチェックしたりすることがあるのですが(「健康骨」レベルなのに ^^;)、ものすごく悲しくなることが多いんです。重さを理解していない、「絵文字と同じノリの敬語」「とりあえずこのフレーズで、というノリの謙譲語」が氾濫している。
ただWEBページの構成についてたずねるような質問でも「ご教授ください」と書かれると、1時間半もレッスンするメソッドじゃないんだけどなぁ〜。とりあえず動きやすい格好で来る? と返信したくなる(笑)。(正しくは「ご教示」。「ご教授」となると、「しっかり教えを授かりたい」という重厚感。俺はグルかっ! てことになる。ならないか)
ネット的なノリとかニュアンスとかカルチャーとか、割り切ったものはぜんぜんOKなのですが、本当にそう書けば業務上適切だと思っている間違いは、やっぱり痛い。「注意しなければいけないような生意気なキャラではありませんよね、わたし。ほぉら、こんなに謙虚」という意思表示の自己評価リスクヘッジで冗長になっている文章が、とにかく多いんです。
まごころがないなぁ、と思います。
実はけっこう自我がお強いのね、とも思います。
この本は、以前楽しく読んでいた「誤字等の館(ごじらのやかた)」の書籍版。
いくつか、ご紹介します。
× 完壁
○ 完璧
手書きだったら、わたしも絶対間違ってる認識。
×寸暇を惜しまず
○寸暇を惜しんで
寝る間も〜 も、けっこう見る間違い。
×そのとうり
○そのとおり<解説より引用>
一方で、「そのとーり」という表記も時折見かけます。ここまでくれば「意図的」であることは明白ですので、誤字とはいえませんね。
この本は、こういう「このノリなら間違いじゃないんだけど」というのが、ちゃんと今どきの認識です。
×不詳の息子
○不肖の息子<解説より引用>
「不肖」とは、未熟で愚かなことを示す言葉です。しかし、「肖」は本来「似る」という意味を持つ漢字です。人の顔を描いた絵が「肖像画」と呼ばれるのは、そのためです。すなわち、「不肖」の意味は「似ていない」こととなるはずです。「不肖の息子」とは単に「親に似ていない息子」という意味になるのではないでしょうか。そこに「愚かな」という意味が加わるのは、なぜでしょう。凡人の親から天才の子が産まれたって良いはずです。なぜ「似ていない」だけで責められなければならないのでしょう。ひとつには、「親と子を比較する」という場面は「親より子が劣ることを嘆く」ときが多いので、親に似ていないということ自体にマイナスのイメージが定着したとも考えられます。そうでないとしたら、比較対照である「親」がことごとく「立派」であるという暗黙の前提が存在することになります。背景にあるのは、「親」というものはすべてが尊敬されるべきものである、といった儒教的な思想でしょうか。
これは面白かった。「親に似ればいいものを、こんなバカ息子に……」と発言する状況って、まずほとんど見当たらないですよね。背景に儒教的な思想、と言われると、「そんな奥行きが!」と、ハッとします。
×責任追求
○責任追及
<解説より引用>
日本人は、「責任追及」にこだわります。何か不祥事が起きるたびに、マスメディアも「識者」とやらも、「責任者」を探し出すことに夢中になります。そこにあるのは、「悪いのは誰か」「責任を取るべきなのは誰か」という議論です。そして、見つけ出した「誰か」に「責任」をかぶせることさえできれば、第一の目的は達成です。マスメディアは「責任者」を攻撃し続け、自らの「正義感」を満たします。
その結果、「責任者」は「辞任」などの形で「責任を取る」ことを余儀なくされます。この時点で「報道」の仕事は終了。問題は「解決した」ことにされ、そのまま忘れ去られます。不祥事の「真の原因」は一切省みられることもなく放置され、やがて当然のごとく「再発」します。
こんな日本社会のひずみを象徴する誤字が「責任追求」です。
(中略)
しかし、「追求」には「探し物を見つけた時点で使命達成」という安直さがあります。「責任の追求」以上のことを考慮しない風潮が背景には根付いているように思えて仕方ありません。
ここは、うなった。
×濡れ手に泡
○濡れ手で粟
使わないけど、こっちの粟だってしらなかった……。
×どこにでも偏在する
△どこにでも遍在する
○遍在する<解説より引用>
「ユビキタス」を「遍在」と訳すことには、ひとつ致命的な欠点があります。それは、文字の形がよく似ていて、発音まで同じ「偏在」という言葉があることです。こちらの意味は「ある場所にばかり、集中的にかたよって存在すること」、すなわり、「遍在」とは「正反対」なのです。
この表現のグラデーションが、日本語の難しさであるなぁ、と思う。どこにでも偏在したら、てんでバランスできない。
×先立つ不幸
○先立つ不孝<解説より引用>
さて、実際に「先立つ不幸をお許しください」という遺書を遺した者がいるとして。どのような思いで遺書を書き記したかは知る由もありませんが、「不幸」という誤字から窺えることがひとつあります。
それは、本当に求めているのは「許し」ではなく、「哀れみ」であるということ。自分はこんなに不幸なんだ。誰よりも不幸なんだ。この世の不幸を一身に集めているのだ。だから死を選ぶしかないのだ。どうだい、かわいそうだろう……。そんな「自己陶酔」的な感情が、見え隠れしているように思えてなりません。
致命的な間違いなんだけど、もう死んでる。二度死んでる。007かっ!
×とんでもありません
○とんでもないことです<解説より引用>
「せわしありまえん」「や「せつありません」は使わないのに、「とんでもありません」を好んで使用するのはなぜでしょうか。ひとつの理由は、「敬語を使う」場面にあるのではないかと私は考えています。「とんでもない」を「意外だ」や「けしからん」の意味で使うときは、そのまま言い切れば済みます。しかし「相手の言葉を否定する」ために使うときは、「会話」という性質上「丁寧な言葉遣い」が求められます。相手の謙遜に対して「そんなことありません、十分すごいです」と持ち上げる場面、相手の誉め言葉に対して、「たいしたことじゃありません」と卑下する場面。いずれも「とんでもない」は相手の言葉を「否定」するために使います。それを丁寧に表現しようとするとき、「とんでもないことです」などの「肯定形」の文章になっては「勢い」がそがれます。そのため、ここでは「とんでもありません」という「否定形」の文章が、「都合の良い」存在なのではないでしょうか。
都合の良い存在の言い回しって、ありますね。たしかに。とてもよい例。
このほかにも、サイト上には
「助さん角さん」(正しくは、格さん)に、
「明らかに角さんのほうがヤリ手っぽくて、バランスわるーい!」とツッコミたくなったり、面白い例がいっぱいです。
「ドコサヘキサ塩酸」も、笑える。
「一人で爆笑」は、まあボリュームの表現としては不可能でも、アリかなぁ、とか。
ちなみにわたしは、「酔う確認」とか、「湯にセックス」とか、仕事で伝説のタイプミスを何度か排出しています(笑)。