うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

「宗教というもの」を理解するために 橘青洲 著

「宗教というもの」を理解するために
ブログで執筆されたものを出版された、という経緯の本だそうです。知人が貸してくれました。大学の講座やシンポジウムで配布されるような冊子形態で、アマゾンなどでは買えないのですが、著者さんのブログでこの本を紹介している「お知らせ記事」のリンク先から購入することができます。

わたしが自分の「宗教観のなさ」を意識したのは、2002年にインドへはじめて行ったとき。ホームステイだったので、とにかくその生活に根づいた宗教観に驚いたし、うちこに挨拶をするインドのお姉さんのなかに「私はブッダのことも尊敬していますよ」とおっしゃった人がいて、「あああ、めちゃくちゃ仏教徒あつかい」と思ったり(参考日記)。
繊維工場を見せてもらったときには、イスラムの人々がお祈りに行くのを「お。時間か。あとでなー」ってヒンドゥー教の人が送り出していたり、礼拝がとにかく身近にたくさんあった。

その後何年もたってヨガを始めて、いまごろになってそんな祈りの生活が身近になってきたけれど、日常的に「祈り」や「礼拝」にフィットした生活にたどりつくには、(ヨガでなく顕教であっても)親がなにかの宗教心と共に暮らしてその姿を見せているとかでないかぎりはすごく機会が少ないと思う。初詣にはけっこうみんな行くのだけどね。


この本は、そんな「宗教にうとい日本人」「宗教という単語にイメージだけで拒絶反応をしている日本人」に、宗教というものをやさしく解説してくださっています。何箇所か、紹介します。

<22ページ 宗教を形から捉える より>
 もちろん、仮説体系とはいえ、それを受け入れた人にとってはそれが真実そのものに感じるでしょう。もちろん私も私の信仰する宗教体系は「自分にとっての紛れもない真実」とし「実在」しています。しかし、それはあくまでも「自分にとっての真実でしかない」と、いうことであり「自分にとっての実在でしかない」ということを忘れてはいけません。
ここで、「自分にとっての真実でしかない」ものが、「自分にとっての真実でしかない」万人のための真実であるべき」となってしまうところに、カルトはもとより、多くの宗教の犯した間違いがあるのだと考えています。

ヨガの場合は「実践を続けてみた自分にとっての真実」でしかないのですが、真実ではあるんですね。なので、「宗教っぽいことするの?」と聞かれれば、「私にとっては宗教なんですねぇ。ヨガは」と答えています。

<26ページ 信教の自由 より>
 自分の信じる宗教を持ち、信仰を深めようとするなら、「信じない自由」の大切さを片時も忘れてはなりません。これは裏返して考えれば簡単に理解できることなのです。たとえば熱心な仏教徒キリスト教を信じろと共用しても拒否されるでしょうし、逆もまた真なのは自明でしょう。同様に信仰を持つ人なら、自分が信じている宗教以外の宗教を信じない権利を当たり前のこととして行使しているはずです。ならば、自分も自分以外の人の「信じない権利」を最大限尊重しなければいけないのは当然のことです。

ニュースだけを画面で見て「怪しい」とかいう発言がされる社会もすごいもんだなと、いまは思うようになりましたが、「信じない自由」を語られる機会すらも少ないことがその原因かもな。

<45ページ 宗教とは必要なものか? (2)人と宗教の関係 より>
 たとえばただ生きていくだけならば「恋愛などはもっとも不要なもの」です。人間が生まれて死ぬまでに恋愛をする必要など全く無いのです。恋愛など無くたって死ぬことはありませんし、生きてゆくことに必要は全くないのです。

 宗教もこれと同じです。ただ生きていくだけなら全く必要のないものです。ですから、夢も希望も全く不要だし、生まれてから何も希望なんか持ったことはないし、ただ死ぬ時をだらだらと時間を潰して待っているだけ、幸せなんか求めたこともないし、それで十分何の不満も無い、という人には宗教は学問や恋愛と全く同じ理由で不要です。

 しかし、人間は夢も持ちますし、希望も持ちます。恋愛もしますし、幸せを求める心があります。ですから、人が単細胞生物のように「ただ生きている」だけならば宗教は全く不要ですが、少しでも人間らしい生き方を求めるといきなり必要になる可能性があるものなのです。

宗教(うちこにとっては、ヨガですね)を「執着から離れる教え」とするならば、恋愛は逆のところにあったりします。そうすると、「よし、全デートに同じハート品質で対応するぞ!」なんてことになってしまいます。つい修行にしてしまう……。

<54ページ 宗教に頼るのは弱い人間である より>
 そもそも宗教とは、人が自分を磨き、より自分が理想とする未来を手に入れられるように成長するための方法を教え、手伝うものなのです。どんなに良い教師についても学生が努力しなければ成績が伸びたりはしません。どんなに良いトレーナーについてもスポーツ選手の記録は伸びません。良い教師やトレーナーについて自分を磨くことは頼ることでしょうか? それは違います。良い教師や、良いトレーナーを探し出し、その教えについていくことは決して頼るなどというものではないはずです。宗教も同じです。

 何かに頼ったり、すがったりしないで自分の人生を切り開きたい、そういう人にこそ宗教はとても役に立つのです。

最後の行が、とっても大切。いつだって前に進むためには、「何でも話せるいつも一緒の友達」が人間だと、どうにも間に合わない。

<73ページ 信仰について より>
 では、「真の信仰者」のあり方とは一体どのようなものなのでしょうか?

 そのスタート地点はたった一つです。それは、真の宗教の信奉者たる「真の信仰者」として自分を切磋琢磨していく姿を社会に示すことによってはじめられるのです。そのひとつの具体例としては「仕事」があげられるでしょう。同じ仕事をしていても楽しそうにしている人と、つまらなそうにしている人がいることは誰でも納得できると思います。この差がどこから来るのか、と考えてみたことはあるでしょうか。

カルマ・ヨーガの教えです。

<77ページ 宗教と幸福 より>
 欲が無く現状に満足していれば、貧しくとも幸せを感じることはできますし、逆に、いくら経済的、物質的に恵まれていても、欲が深ければ幸福感は少ないものです。従って私たちは幸福感、つまり幸福を感じる心を常に最大限に求め、さらにそれを大きなものに育てようとすることが大切なのであり、その役割をもっとも大きく担ってくれるものをもとめるべきであり、それを宗教に求めるならそうした機能を持った宗教を求めるべきなのです。

「足るを知る」ことを教えてくれる宗教ですね。

<82ページ 一神教多神教 より>
多神教の世界は基本的に豊かな自然に恵まれたエリアで発展していきます。豊かな自然観がベースとなり、神々の概念を産み出した多神教の世界は一神教が厳格な戒めを守らないものに敵意をむき出しにするというのとは正反対に、異質な価値観に基本的に寛容です。たとえば日本人の民族的宗教観を例にすれば、多種多様な命や価値観の共存をはかり、「和」を尊ぶおだやかな救済論が育ってきました。

以前このブログで紹介した「日本人なら知っておきたい神道」にあった部分と似たことが書かれています。3年前に読んだこの部分に当時「なるほど!」と強く思ったのを思い出しました。
以下、関連して引用。

<15ページ 「自然崇拝はなぜ生まれたか」(「日本人なら知っておきたい神道」)から>
砂漠地帯などの自然の脅威は永続的なものだ。それにたいして、台風、洪水、地震、噴火などの日本の天災は一過性のものに過ぎない。それゆえ、日本人はそういったものを一時的な神の怒りとして説明した。このような豊かな土地にいたから、日本人は自然の恵みに神を感じた。しかし、生活をするのが困難な砂漠のような土地に住む人間は、自然現象を人間の敵と考えざるをえなかった。そして、そのような生活に適さない土地の人間は、人類に厳しい掟を下す一神教をつくった。

日照りが続いたところに雨を降らせた空海伝説などには、「一神教」的な「瞬間」がみられます。逆に芸術の発展のしかたなどを見ると、「一過性」が「はかなさ」として美の表現に昇華されている。やっぱり風土と心の内観は結びつきが深い、と思います。(関連する日記『日本の「至宝」について、考えてみた』)

<84ページ あとがき より>
 日本人は本文にも書いたように「宗教に無知」な人があまりにも多いのが実情です。たとえばイスラームについては、いまだにイスラム教と書いてある本などを見かけます。しかし、イスラームという言葉には「教」という意味があり、「イスラム教」というのは「仏教教」「キリスト教教」などというようなおかしさがあるのです。また、創始者マホメットと日本ではよく言われていますが正しくは「ムハンマド」ですし、経典名は「コーラン」ではなく「クルアーン」です。ニュースでイスラームのことが報道されることはよくありますが、世界三大宗教の一つの宗教名、創始者名、経典名を全部間違えて認識している日本人が多いということは、日本人がいかに宗教を知らないかの好例だと思います。

わたしも例に漏れず、指摘の間違い認識を持っていました。


たとえば、こういう本を手に取ること自体に「ためらい」のようなものがあるようであれば、それはマスメディアに洗脳されていると言えるかもしれません。このように「宗教というもの」を解説するそのまんまの本に出会ったのは初めてで、読みながら過去の自分の中にあった「偏った目線」を思い出すことが何度もありました。テレビや教育というのは、怖いものだな、とも思いました。