インド人講師あての、とある機構からの招待状を見て、考えさせられることがありました。
インドの文化を日本に伝える人々を招待して、インドの「至宝」についてあらためてその心をひとつにしましょう、エイエイオー! みたいな内容の招待状なのですが、そのなかには
インドの至宝である「霊性」を
と書かれていました。
「ヨーガ」に触れる人にとって、その密着度や深さはさておき、少しは「なるほど」と思う単語ではないかと思います。そして、日本社会にいる時間においては、「非日常」な単語かもしれません。
でも、「これか。だよなぁ」と思います。
単語への「慣れなさ」は、日本の単なる「風潮」によるもの。「性」は常用単語の法則でわかる。「霊」が密着していないだけ。もしくは、お化けや呪いや占いに変換されている。これは無邪気に、怪談とかミステリーが好きな日本人の嗜好、ということでここは明るく片付けてしまおうと思います。書き出すときりがないので。
この宣言を見てわたしが考えたのは、
日本の至宝って、なんだろう。
ということ。ここまで言い切れるものが、すぐには思い浮かばない。
そこで、いつもインド人(日本語を話す)から放たれるフレーズにヒントを求める。
日本は、ホンネとタテマエの国ネ!
外国の人から見て、こんなにややこしい判断が定着しているからには、そこに何らかの美徳があって、守られ続けてきたからだろう。いろいろな言い換えを探してみる。
相手を傷つけない「思いやり」
嘘も方便として使う「割り切り」
場の雰囲気を重んじる「配慮」
ここから最大公約数的に想起するものは、個人によって差が出ると思う。それは、「想像の個性」かもしれない。価値観の再確認かもしれない。
わたしの場合は、
「和」
を想起しました。
ほかに想起したけど却下したものは・・・
「侘び寂び」(わびさび)⇒海外への発信を意識したものである気がする
「思いやり」⇒弱者や同調する仲間へは迷いなく向けられるが、いっけん強そうに見えるものへはまっすぐに向けられない、薄っぺらいものに思える。
「情」⇒「思いやり」と同じように、「かわいそう」「自分より下の状況」にのみ迷いなく向けられる矛盾を感じる。
ある意味、そうかも・・・と思ったけど、それが至宝では悲しいので却下したものは・・・
長いものに巻かれる「素直さ」
王道ではないかもしれないけれど、うちこが個人的に認めたい至宝は・・・
「四季」
終わることが約束されない過酷な風土から起こる「救われない不安」がない。祈るしかないような一神教的な思想ではなく「和」の精神に至っていること。
一神教の国と相反して、風土に恵まれたことによって生み出された、「余裕」のうえに育まれた「和」の精神。
インドの至宝は、内観すべき風土によって育まれたものかもしれない。全国民で「なにか」を覆い隠し続ける矛盾したエネルギーと共存することを支えているのは、個々の納得をうながす「内観」による「霊性」かもしれない。
わたしは「国民性」について語るとき、絶対の種は「風土」だと思っているのだけど、そうでない視点では、どんな答えが導き出されるかな。今日の考察を、今日のメモとして残してみました。