うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

寂聴 天台寺好日 瀬戸内寂聴 著

これは1995年の本ですから、13年前ですね。岩手県天台寺へ瀬戸内さんが移られたときの逸話です。「どこにでもいつでも、物事を斜めにしか見られない不幸な人はいる。(金のかかる坊主を呼んで、どうするんだと揶揄された)」、なんて話もあり、元気づけられる一冊です。のちにどれだけの結果を出そうと出すまいと、揶揄する人は、生き物の絶対数として存在するみたい。信念あるのみですね。
何箇所か、ご紹介します。

<19ページ 天台寺へ趣く縁 より>
 今(東光)師は私を法弟として得度させて下さったけれど、示唆されるまで、一向に師匠らしく、私を導こうとされたり、弟子としての義務をめたり強いたりはなさらなかった。何時でも私を法弟としてよりは文学者の仲間として対等に扱って下さったように思う。
「寺づきあいなんかしない方がいい。心で念じていればいいんだ。仏教界は、俗の最たるものだ」
 などという毒舌を始終聞かされていて、のんきな私はそういうものかと、ほとんど師の神にかくれ、仏教界づきあいはしないでいた。

すてきな逸話です。

<42ページ 晋山までのひと月 より>
四月二十六日(日曜日)
(「寂庵だより」についての走り書き)来月は二頁増しで八頁にし、晋山、巡礼特集のつもり。もはや後へは引けない。広告を出させてほしいという申し込み二件あり。断る。理由、品位が落ちる、場所がない。

本当に忙しい人の、シンプルな思考と決断。

<69ページ たばこの葉ののびる頃 より>
 ある時から、私は自分のこの多忙さに負けない方法を考えだした。
 どうせ、何かの縁で引き受けてしまった以上、どの仕事も厭々やるのではなく、喜びをもって心から進んでやりこなそうということであった。
 厭々することはすべて心と身体へのしこりとなってストレスの固りになり、ガンの素になるような気がする。
 仏教では心にわだかまりを持たないことを理想とする。
 厭々やっても、喜びをもってやっても、どっちみち、しなければならない仕事は、しなければならないのだ。それなら、喜びを持つよう心の切りかえをしておく方が愉しいではないか。

本当に忙しい人の、シンプルな転換。

<89ページ 願文と法灯 より>
(宗祖伝教大師最澄は)
 延暦七年、二十一歳の時にはもう一つの草庵を建て、一乗止観院と名づけた。つづいて、経蔵、八部院、文殊堂、根本中堂と、超人的勢力で矢つぎ早に、数年のうちに堂舎を建立しつづけている。
 その頃はもうサンガの中心者として比叡山に新仏教を打ち建て、同士たちが修行と勉学するにふさわしい聖域を経営しようという考えが、固まっていたのだろう。
(中略)
徹底的に自己否定した立場から、最澄は仏教の大目的のため誓願を立てたのだった。すべてのことに囚われないで真理を体得し、絶対壊れない金剛石のような心願をおこした。それは、
「第一、自分が真の仏道を修行した仏道者にならなければ絶対世間へはでない。
第二、仏道の真理を体得しないうちは才芸などに見むきいもしない。
第三、浄戒を具足しなかったら、信者の布施にはあずからない。
第四、もし仏教の知慧、般若の心を得ないならば、世間に出て、世間的な仕事をしたり、交際をしたりしない。
第五に、修行によって受けた法仏の功徳は自分ひとりのものとせず、すべての人に分ちあたえたい」
 というもので、この心願を貫き通し、はては解脱の妙味はひとり飲まず、安楽の果報はひとりじめにせず、すべての法界の人々に同じ喜びをわかちあたえようと思う、という決意がつけられている。理想主義者最澄の純真無垢な情熱が感じとられる。自行化他の菩薩行こそが、最澄の究極の理想であった。

潔癖。そのへんがバランスするヨギと少し違う。空海さんとの決別の「質」の背景が少しうかがえるような記述でした。

<109ページ 地蔵とコスモス より>
 まだ、町のどこかでは、私のことを賽銭泥棒に来たんではねえかなどいっている人もいるという。けれどもそういう人のことを、顔を真赤にして「理解がねえだ」と怒ってくれるのも、この町の人なのである。
 どこにでもいつでも、物事を斜めにしか見られない不幸な人はいる。
 そんなことを気にしていては何も物事が前進しない。

「そんなことを気にしていては何も物事が前進しない。」本当にそうですね。

<175ページ 人間の及ぼぬ力 より>
(名前を与えてくれた大僧正今春聴先生に)
 寂聴──どういう意味ですかと伺うと、「出離者は寂なるか、梵音を聴く」とおっしゃいました。寂というのは「さびしい」とも読みますが、もう一つ、「しずか」とも読みますね。出家した者は心が穏やかで、あんまり怒ったり泣きわめいたりしない。その静かな心で梵音を聴く。
(中略)
 出家した者は、仏様のお寺でたてる物音、それから宇宙の森羅万象がたてる、生きとし生ける者がたてる素晴らしい声、優しい声、愛の声、生命の声、そういうものすべてを、静かな心で聴きとるというふうに解釈して、これはとても素晴らしい名前で、名前負けしそうだなと思いました。そして喜んでその寂聴の名をいただいたんです。

梵音といわれると、あらゆる声に耳を傾ける気にもなるってもんですね。文句もオーム。愚痴もオーム。

<178ページ 人間の及ぼぬ力 より>
よく因縁というでしょう。「うちは因縁が悪いから、よく病気をする」とか、病気になって、あるところに拝みに行ったら「先祖の因縁が悪いから、そのバツがあたった」とか言われる。あんなの嘘ですよ、そういうのに惑わされてはいけません。仏教というのは、非常に科学的なものなんですよ。

ヨーガもおそろしく科学的。国民的坊主に「科学的」と言われると、気持ちいい!

<191ページ 今日を生きる より>
 (何度懺悔しても、仏様はいつでもゆるして下さる、という話の後に)
それではなんにもならないじゃないか、と思いそうですが、そうではないんですね。三日、四日、五日も同じバカなことをして「ごめんなさい、ごめんなさい」って謝っていますと、謝っている、その自分のバカさ加減に気がつきます。
(中略)そうすると、ひとに対して偉そうなことが言えなくなる。「自分はダメ人間なんだから、他人が少々間違ったことをしても、目くじら立てることは出来ない」というふうに思います。そういうことが、心のわだかまりをなくすことなんです。

うちこもしょっちゅう「ごめんなさい」しますし、逆に「そのとき自分で決めた最高の決断なんだ。相手によってどう思われようと、これが自然の法則だと思ったのだから、相手のリアクションを気にするのは自分のエゴだ」という自問もします。日々の生活では(特に仕事では)後者が多いかな。自分ひとりの「わだかまり」に立ち向かう体力も重要。


今回は、他の本ではあまり書かれていなかった最澄さんのお話が読めてよかったです。

寂聴 天台寺好日 (講談社文庫)
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瀬戸内寂聴さんの他の本への感想ログは「本棚」に置いてあります。