うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

走ることについて語るときに私の語ること

走ることについて語るときに私の語るこ
タイトルはパクリなのですが、走り始めて2年を経て思うことがあったので、今日はそのことについて書こうと思います。
写真は、日曜の公園。今週は週末の両日とも、軽くゆっくり8キロくらい走りました。8キロというのは、ヨガもしながらの日常で今のところいちばんしっくりくる長さ。「もう少し走りたい気分だけど、このあと太陽礼拝もしたい。どうしようかな」と迷うのがこの距離。

走り続けたらそのまま20キロ、30キロと行けちゃうことはわかっているのだけど、今日はこのくらい、というのがまるで恋。デートの終わりの瞬間のようなのです。もともと駆け引きしない性格なので、そういう意味ではなく、「いちばんほんわかと温かみを感じる距離」を自分なりに楽しもうとする感じとでもいいましょうか。

反面、ヨガは伴侶のような存在と感じています。「付き合ってて楽しいのはジョギング君なんだけど、結婚するならヨガ君なのよね」というのが、あまりにアホなたとえながら、妙にしっくりいくんです。ジョギング君と一緒にいるときは、移動をするから景色も変わる。視界の変化が、徐々にヒートアップして少しハイになっている私たちの気持ちに拍車をかける。すこしピリッとした疲労感は、おぼれることへの忠告のように感じられることがある。そして、たまに会うのがおっくうな時期もやってくる。

ヨガ君は、いつもわたしを変わらぬ安定感で包むようにそばにいてくれるのだけど、じんわりとおとずれる疲労感とそれがもたらす安堵感に、これでいいのか? という気分になることがある。ヨガ君と細く長く一緒にいることで、刺激的ではないけれど「これってもしかしたらあの時ヨガ君が言ってたことと同じなのかしら」という小さな発見と確信が、これからも一緒に成長していきたいな、という気負わない志の源になったりする。ただ、その源だって信じ続けなければ永遠ではない。いつかなにかの拍子で別のものに変わるかもしれない。


表現は少し妄想が入っているかもしれないけれど、うちこもいいトシなので、ベースは経験談(笑。遠い昔ね)。恋の相手を人間に限定することが、なんだかすごく不自然なことに感じるこのごろです。お口の恋人がチョコレートであるように、心の恋人が走ることであっても、ヨガであってもいいのよね。