うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

西遊記(下) 平岩弓枝 著

上巻に続いて、下巻の感想です。
下巻ではもうずいぶんと弟子たちの徳もあがり、上巻のような「八戒へのいらだち」なく読み進み、あれよあれよという間に読み終えてしまったのですが、読んでいる間、ほんとうに幸せなひとときでした。通勤のバスの中で涙目でした(笑)。
この西遊記には、「羯諦(ぎゃてい)さん」たちが何度も出てきます。そう、お写経のときにうちこがついノリノリになってしまう、般若心経のクライマックス「ぎゃていぎゃてい はらぎゃてい」と同じ読み方の。般若心経では、この部分は聖音であるという解説を読んだことがあるのですが、この西遊記を読んだ後ですと、「羯諦、羯諦、羯諦さんたちがいっぱい、私たちを守ってくれているよ! 大丈夫!」といったイメージが沸いてきます。
悟空が任務遂行中に、危険な状態のまま三蔵を置いていくとき、三蔵を守ってくれるのがこの羯諦さん(ちっさい神様)たち。きっと、「なぜかうまくいった」「なぜか危機を逃れた」というときは、きっと羯諦さんたちのしわざに違いありませんね。

後半の西遊記の読みどころは「弟子の成長」と「師弟の絆」。泣かすんだこれが何度も。
そしてこの西遊記は、よくわからないコーチング・マネジメント論(部下育成)の本を読むよりも、ずっとよい。
ラクして評価されたい、強欲な八戒」「なんでも自分でやったほうが早く、自分で片付けようとする悟空」「率先して判断して動いたりしないが、安定したパフォーマンスをもつ悟浄」という3つのキャラクターが、読んでいると必ず自分や周りの人と重なって見えるはず。旅のなかでのさまざまな会話、エピソード、戒めから学ぶことがいっぱいなんです。
そしてこの弟子たちは、お師匠さんがいなければ、雲でひとっとび。わざわざ面倒な旅など必要がないのだけれど、お師匠さんとともに、人間の足に合わせて旅をする。その使命に気づいていく過程も、なにげない描き方なのですが、じんわり沁みます。

今回もいくつか引用紹介します。

<248ページ 盤糸洞の七妖女と黄花観の百眼魔君 より>
思わず、三蔵が呟いた。
八戒は変わりましたね。はじめて出会った頃は横着者で自分本位、人のいうことは必ず反対してみせるという悪い癖がありましたのに」
 悟浄が人のよい顔で笑った。
「あれで、ふんぞり返ったところがなくなったら、たいしたものですが……」
「いいえ、それくらいは残しておいたほうがいい。八戒らしさがなくなってしまいます」
「成程、そういうものでごぜえますか」

八戒が変わっていく様子が、下巻の大きな読みどころ。

<260ページ 天竺国、玉華県に至りて三王子と会う より>
「悟空や、みてごらん。花が咲いている。あれは、たしか仏桑華。天竺のことを書いた絵巻でみたことがあります」
 三蔵の声がはずんでいると思い、悟空は胸の中が熱くなった。花果山育ちの石猿にすぎない自分が、お師匠様のお供をして、とうとう天竺まで来たというのが夢のような気がする。
 考えてみれば、この旅に出てから悟空自身は何度も大雷音寺まで雲を飛ばして来たことがある。にもかかわらず、先刻、国境を越えてこの国の城門を入った時の、なんともいえない感動はこれまでになかったことであった。
 雲では駄目なのだと悟空は足に力を入れた。

わ。コピペしただけで、また泣けてきた。

<317ページ 舎衛国の布金禅寺にて不思議の美少女に会う より>
 それでも、ひっそりと肩を落としてうつむいている公主の姿を見て、悟空が三蔵にささやいた。
「どうやら、記憶を消して行ったほうがよいような気がします」
 公主が前世で仙女であったこと、玉兎によって布金寺にとばされていたこと、公主に化けた玉兎が天婚を行ったこと、どの一つを取っても、公主にとっては忘れられない出来事だと悟空はいった。
「人はおよそ前世のことなど知らなくてよい筈です。それを知れば、よけいな悩みや迷いが生じます。公主様のために、それらを消してしまうほうが、これからの日々のためによかれと思うのですが……」

(三蔵の許可を得てから、悟空が術によって公主の記憶を消してしまう場面)
ここは、悟空がはじめて率先して、ボタンの掛け違いのような誤解で発生した不幸な境遇の者たちに、自分の考えを提案する場面。かつては「けっ。自業自得じゃねえか。どっちもどっちだな」と一蹴していたかもしれない悟空が、「人はおよそ前世のことなど知らなくてよい筈です。それを知れば、よけいな悩みや迷いが生じます。」という瞬間。悟空、悟りの発言。


ちなみにこの西遊記三蔵法師と般若心経のつながりを記述した部分が一瞬だけ登場します。これは「ウォーリーを探せ!」並にさりげないです。クライマックスは、ポケットティッシュひとつじゃ足りないよ!


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