うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガによる人間回復への道〈1〉沖正弘 著

ヨガによる人間回復への道〈1〉沖正弘
図書館で借りて読んだのですが、写真を撮り忘れたので、写真は同書籍の第二編。ほとんど同じ感じの装丁です。
この本は、昭和三十五年から三十七年にかけて発刊されていた、日本ヨガ協会の機関誌であった「人間回復」その他から、沖師の原稿を集めてまとめたものだそうです。(続編はこちら
沖先生の本はハズレがないのですが、これもかなりよかったです。沖先生節による「ノイローゼへのアプローチ」は必読モノ。身近なノイローゼの人に対して、前向きな観察と理解をするための助けになると思います。

坐禅の聖者、道元禅師の「正法眼蔵」からの引用も必読。スリ・ユクテスワさんばりの人間科学もてんこ盛り。いくつか、グッときたところをご紹介します。

<86ページ 瞑想行法について より>
 私たちの食べ物には膨張性(陰性)のものと収縮性(陽性)のものとがあります。液体になる食べ物と、固体としてしか残らない、つまり鉱物性の食べ物のふた通り、焼いたらガスになって逃げる成分と、配分になって残る成分のふた通りの性格が食べ物にはあります。そのふた通りのバランスがとれている血液を中性というのです。焼いたらガス体となるものが血液の中に多くなると、これを酸性過剰といい、反対に鉱物性のものが多くなると、これをアルカリ性過剰というわけです。
 だから坐禅をするときでも、ただ坐禅をしただけでは真の坐禅とはいえません。正しい姿勢をとる練習をすると同時に、正しい呼吸ができるような練習をし、さらに食物に気をつけなければならないわけです。でたらめな物の食べ方をして血をにごらせた上に、いくら坐禅をしようと思っても、血の中に興奮させるような成分があるかぎりは、それができないわけです。
 いくら抑制神経、鎮静神経のほうを刺激してやろうと思っても、血の中の成分が酸性過剰であるかぎり、どうしても神経を興奮させてしまい、落ち着こうと思っても落ち着けない。さらにエネルギーが多すぎると、落ち着くどころか雑念妄想が起こってくるだけです。そういうことを知らずにただ坐禅をしていると、異常を促進することになって、かえって変なことになります。神様が見えたり、霊感が起こってきたり、俺は神様だとか、いわゆる新興宗教がかった気狂いみたいなことになります。
坐禅というのは、血をにごらせたままやるとそういう危険性があるのです。

「エネルギーが多すぎると、落ち着くどころか雑念妄想が起こってくる(だからアーサナがある)」というヨガの教えを、日本の禅と関連づけた、このような説明を受けることができる日本人は、ヨギとしてやっぱりよい環境に恵まれていると思いました。


<129ページ 坐禅の目的と効果と方法 より>
人生修行においても同一の努力の中に、プラスになる苦労とマイナスになる苦労の二種類があることに気づかなければならない。これが健否、迷悟への岐路を作るのである。まちがった努力は進化(喜び)への道ではない。ひとつひとつの生き方をプラスにするくふう、すなわち正しさを身につける努力をヨガというのである。
 ただ吸う坐法とは何かを知るために、坐禅の聖者、道元禅師の教えを参考にしてみよう。

 坐禅儀」の教え(正法眼蔵第十一)

 参禅は坐禅なり。坐禅は静処よろし。坐蓐(ざにく)あつく敷くべし。風烟を入らしむることなかれ、雨露をもらしむることなかれ、容身の地を護持すべし。かつて金剛の上に坐し、磐石の上に坐する蹤跡(しょうせき)あり、かれらみな草を厚く敷きて坐せしなり。坐処明らかなるべし、昼夜暗かざれ。冬暖夏涼をその術とせり。諸縁を放捨し万事を休息すべし。善也不思量なり、悪也不思量なり。心意光陰を護惜すべし。頭然をはからうがごとく坐禅を好むべし。黄梅山の五祖、異なる営みなし、唯務坐禅のみなり。坐禅のとき、袈裟をかくべし。布団を敷くべし。布団は全跏にしくにはあらず、跏趺の半ばよりうしろに敷くなり。しかれば、累足の下は坐蓐に当れり、脊骨の下は布団にてあるなり。これ仏仏祖祖の坐禅のとき坐する法なり。(中略)
 正身端坐すべし。ひだりへそばたち、みぎへかたぶき、前にくぐまり、後へあをのくことなかれ。かならず耳と肩を対し、鼻と臍を対すべし。舌は、上の顎に掛くべし。息は鼻より通ずべし。唇・歯合い着くべし。目は開すべし。不張不微なるべし。かくのごとく身心を調えて、欠気一息あるべし。兀兀(ごつごつ)と坐定して、思量箇不思量底なり。不思量底如何思量。これ非思量なり。これすなわち坐禅の法術なり。坐禅は習慣にはあらず、大安楽の法門なり。不染汚の修証なり。

 私は科学的説明の発達していなかった古い時代において、多くの先輩の哲学者たちが、体験だけによって真理を把握された苦労を偲ぶとき、静かに感謝の合掌を捧げずにはおられない。

道元禅師は、耳と肩、鼻と臍、舌の位置、呼吸、口と奥歯、目線、細かくこんな解説をされていたのですね。今の日本語に変換して読むと、普通にヨガの先生ですね。


<134ページ 正しい坐法とは より>
瞑想体形で、最初に意識を尾底骨に集中し、その部の力をだんだんと丈夫に移すつもりになり、それを頭頂までもっていき、ふたたび下におろし、上部まで運ぶことを繰り返すのである。ヨガではこの坐法を神秘力覚醒の坐法と名づけている。ヨガでは尾底骨部を神秘力の首座と称している。みなさんもこの坐法を試してみられることをおすすめする。しばらくたつ間に、形容のできない落ち着きと、内部の充実を感ずることができることであろう。

これは、ヨギ向けの機関誌の内容の掲載です。


<171ページ ヨガの教えは無道無門である より>
無とは、ないということではない。あるのである。しかし無いのである。この意味が何であるか、それは全肯定の境地である。ヨギは現象のすべてを肯定し、それを門とし、道として、より良き生き方をするものである。無とは無対立の境地である。ヨガとはいっさいと調和することを目的とする教えである。ヨガは無道無門なるがために目に見えるもの、目に見えざるもののすべてが教えなのである。ヨギは目に見えるものの教えを受け取るために行法を行ない、目に見えざるものの教えを受け取るために哲学し瞑想するのである。

ゼロと1のインドルーツ的な概念とヨガの関係性を記述したメモすべき部分。


<219ページ ノイローゼの原因 なりやすい人がら より>
思うということはエネルギーが発生していることであり、これが行動への力となっている。(中略:この後、その使い方の例で大事業をなす、思考、文筆の方で出る場合もあるとした上で)
この表現の仕方は人によってちがう。しかし多くの人の中には共通の型があるので、その観点から考えてみよう。

神経質型
 この型の人はちょっとした刺激にあってもすぐに緊張してしまう。なにごとでも人一倍気にして、誰にでもまたいつでもおこるような何んでもないこと(たとえば頭痛や不眠や疲労)を否定しようとして焦ったりする。この型の人が神経衰弱になりやすい。この型の者は人一倍欲求する心が強いものである。

不安型
 この型の人はちょっとしたことでも好き嫌いが激しく、些細なことにもこだわりやすい。これは両親の過度の保護によったためのものが多い。この種の人は、自分でもなにを不安に感じているかさえわからないものに不安を感じており、またなぜかわからない不安にいつも追いかけられているように思っている。その例が一般人には考えられないような「死の不安」などである。(後半略)

ヒステリー型
 この型の人は自分を過大評価しており、自分をえらいと思いやすく、その自分に、他人の関心が向くことおよび他人が自分を価値づけてくれることを強く求める。またこの型の人は、人前をたいへん気にし、負けず嫌いで、派手好みで、勝気で、自己中心的で、空想にふけりやすく、暗示にかかりやすく、芝居じみた言行をとったりする。(後半略)

恐怖型
 この型の人は自信が欠けている。なにをするにもためらいがちであり、なにをしても不完全な感じがつきまとうために、ついには劣等感におちいってしまうのである。この型の人は、度のすぎた潔癖さや計画性をもっており、ちょっとちがっても、たちまち不安になってしまうのである。この型の人は安全感や確実性を求める心が人一倍強いのである。(後半略)

憂うつ型
 この型の人はなにごとも悲観的に考え、いつも過去を後悔し、将来を恐れ、すぐ自分を責めて、自分をだめだと思ってしまう。

 この他、悲哀型、不満型、執着型、縁起型、神罰型というようにいろいろの型があるが、普通には各型の混合型が多いのである。

「神経質な人が人一倍欲求が強い」「ヒステリーな人は競争心丸出しで派手好み」など、みなさんも心あたりのある対人関係、ありませんか?
人を攻撃する気質については、以前紹介した「パーソナリティ障害―いかに接し、どう克服するか」という本の解説がとてもわかりやすいです。


<231ページ ノイローゼはヨガ行法で全治する 解脱の方法 より>
 自然心(平常心)とは、なんらの対立抵抗のない心である。そのようになろうとすれば、かえって、なれないのが我々である。期待にこだわっていては、「唯行なう、無心に行なう」ことができない。期待にひっかかるために、不安になるのである。不満が生ずるのである。気になるのである。よくてもわるくてもどうでもよい。私はただひたすらに前進するのだと、与えられるままに「これでよいのだ」という心で生きているものに悩みはないはずだ。そして、「このままでよい」という心もなくなったら、合掌(徹底)の境地である。いっさいを神の摂理(教え)と受け取れたら、信の境地である。
まかせたり、求めたりする対象の神仏もなくなったら、無(空)の境地である。無の境地とは、神仏と我とが一体となっている状態であって、この完全なる解脱に達したときには、あるがまま、あってない(すなわち、雲がありながら光に満ちている)状態になるのである。

最後の、「雲がありながら光に満ちている」という表現にグッときました。
私自身がいつもそのように思っていて、落ち込んでいる人に言うのは「みんな勝手にいろいろあるの。でも、悲観しても楽しんでも"時間"だけはいつも平等に過ぎていくよ」ということ。


<268ページ 子供の躾かた 無意識のさせるくせ より>
 人間の筋肉は使えば使うほど健康になると思えば楽しみながら働けますが、こんな仕事をさせられて馬鹿馬鹿しいといや気を出せば苦しみの種子になります。だから子供のときから苦しいことは楽しみながらするものだということを教えこめば、どれだけ人生を楽しく生きていくことができるようになるでしょうか。

筋肉にたとえられると、わかりやすいですね!

<273ページ 性のよろこび 性愛をともなう人間の性欲 より>
 ヨガは、エネルギーの善用(昇華)を教えるものである、だからヨガにおいては「べからず」がない。訓練と理性によって、欲求エネルギーを善用すればよいのである。どういう立場になっても困らない、喜んで生きていける広い適応性(悟り)をもった自己を作り上げていくのが、ヨガの訓練法である。

ヨガをはじめていきなり前のめりな感じで菜食したりするよりも、そのテンションはどこから来ちゃったんだっけ? ということに目を向けるほうがヨガ的、と思います。身体が自然に要求しはじめた流れに乗るのが現実的。
今日、雑誌の「Tarzan」を立ち読みしたら、市川海老蔵さんがヨーガ&菜食コメントをしていて、それを読みながら思ったことと一緒です。マドンナさん並みに期待してますが(意外と嫌いじゃないんで。このかた)。


<307ページ 病気の正しい観方、受け取り方 より>
 下痢や発熱や疼痛は、いろいろな異常にともなっている症状で、これ自身が病気ではありません。治している働きのあらわれです。下痢の原因としては、過食、毒物、細菌、刺激、恐怖、驚愕などであって、下痢によって生体は浄化されるのです。
 痛みは、異常部に血液を集めようとする生命の働きです。その痛み方の種類によって、表部か深部か、小範囲か広範囲かも解ります。
 なぜむくむのか。これは栄養過剰の場合、その分解成分が腎臓の排泄力以上となって、その毒物が細胞間にたまって、それが細胞の生存をおびやかすようになったとき、それを薄めようとして、水分を組織細胞の間に増加させるからです。
 なぜたるむのか。弱っている細胞のために脂肪が集まるからです。
 なぜちぢむのか。使用過剰による過労部位を保護するためです。
 なぜだるいのか。それはエネルギーがあまっているからで、働けばこれは治るのです。
 運動して治る異常の多くは、エネルギーのあまっている病気で、このような人が休養するとますますその症状はひどくなるわけです。痛みや驚きのとき気絶するのは、大脳を働かせていては治りにくいために、一時、大脳を休ませて、その間に治そうとする生命の必要なる手段です。精神異常もそうです。
 その他いろいろと千種万様の症状がありますが、いずれも生体を助けようとする生命の働きの作用であって、少しも心配すべきものではなく、治してくれている働きのあらわれであって、むしろ喜ぶべき現象であることをよく頭に入れておいてください。

「なぜだるいのか。それはエネルギーがあまっているからで、働けばこれは治るのです。」
無駄口の多い人を見ていると、本当に、そう思います。


<325ページ 私はセンサク好きである より>
 私に、心の面で一番多くの問題を投げかけて下さった方は、生長の家の谷口師、天風会の中村師、禅の鈴木大拙師、山本玄峰師、日蓮宗藤井日達師、真宗の暁鳥師、曾我師、キリスト教の賀川師等である。身体の面で目を開くきっかけを与えて下さったのは、西式健康法の西師、メシヤ教以前の岡田師、忍術の藤田師、合気道の植芝師、人間医学の大浦師、整体法の野口師、食養の桜沢師等である。
いろいろな方の教えの総合で、私の理解度がすすみ、次第に正見ができはじめたのであった。思えば、ずいぶんとまちがいをまちがいとも思わず生きているものだと思う。

沖師、天風師、野口師は、ヨギにおなじみのところかと思うのですが、日蓮宗藤井日達師は佐々井さん伝である「破天」でお名前をインプットされており、日本の実習系哲学者は、かなり素敵な顔ぶれですね。鈴木大拙師の本、読んでみたいなぁ。


<394ページ 質疑応答 より>
ヨガのアサンスとサーカス
Q:ヨガのアサンスには一見、常人にはできないようなサーカス的なものがありますが、そこまでいかないとヨガの効果はないものでしょうか、教えてください。
A:(丁寧に長い回答です。後半を抜粋)ヨギがアサンスやプラナヤマをするのは、身体の働きを整えて禅定(ディヤーナ)法を実習しやすくするためです。ヨギは心身は一如と思っています。(中略)ただ訓練するのであれば、上達はするでしょうが、ヨガとはいえません。心の状態はどうか、何を考えているか、生活ぶりはどうかであるかにヨガと非ヨガの岐路があります。

よくはじめたばかり(もしくは体験の時点で)「体が硬いのですが」という人に、師匠は「カタイいから来たんでしょ? 頭がカタイんじゃないの?」といいますが、そのはじまりが、「ヨガと非ヨガの岐路」。怒られた人は、ラッキーと思いましょう。
私はもう少しやさしく「硬いところを知る体力テストだと思ってやったらいいじゃない」とか言ってますけれども、思ってることは一緒です。


<398ページ 質疑応答 より>
気分のイライラをなおすには
Q:私は年中気持ちがイライラモヤモヤしております。生きていることが苦しくてなりません。この解決法を教えて下さい。
A:(丁寧に長い回答です。中盤を抜粋)偉大な仕事をした人には楽な立場にあった人よりも、苦しい立場にあった人の方が多いでしょう。それはエネルギーを上手に使ったからです。(中略)苦しみを自己向上への力とかえるくふうを修養、修行というのです。自己を方向転換したいときには逆境こそチャンスです。

いいこといいますわ先生。


<407ページ 質疑応答 より>
無心の境地になるには
Q:無心の境地を求めて久しいものですが、未だにその道程がわかりません。どうしたらなり得るかをご教示くださいませんか。
  私は解脱の方法として参禅をしております。坐禅中どうしても無心になれないのですが。
A:(丁寧に長い回答です。末部を抜粋)無心になるにはこのようないろいろな方法があります。
心理的方法としては──
 イ:無心への道程を理論的に理解し、それを生活に行ずる努力をする。これをサン・プラジュナタ・サマージといいます。
 ロ:神仏への信仰によって、全托、無条件、無対立の心境を体得する。これをアサン・プラジュナタ・サマージといいます。
生理的方法としては──
 イ:禅定行法をひたすら実践することによって生理的安定を身につける。これをシイヤナ・サマージといいます。
 ロ:身体の積極的訓練によって、高度の適応能力を身につける。これをギャテー・サマージといいます。
生活方法としては──
 生死の境をさ迷うくらいの真剣さで仕事にとりくみ、対立している余地のない生活をしていつの間にか無心の境地つまり不動心を体得する。これをニルヴィカルピタ・サマーディといいます。

 あらゆる方法を通じて無を体得するのがヨガの道です。
 無とは一如になっている状態です。最高の一如感は神我一如の境地です。このことを禅の高僧は「一日二十四時間が坐禅であれ」と教えています。

「高度の適応能力を身につける」という言いかたは、よいなぁと思います。「動じても変わらないことが身体に染み付いて、あわてなくなる」という感じと似ています。


<412ページ 本書を編集させていただいて より>
(求道実行会密教ヨガ修道場教学部長 鴻巣盛兄さん)
 聖師(沖師)は、病人やノイローゼの人はエゴの所産であるといわれていました。
 また聖師は、消極的で遠慮がちな態度をとる人に対して、「お前は自分を何様と思っているのか」とよくいわれました。これは一見、反対のことのように思えます。今はできないからやらない、できるようになったらやります、という態度は、一見、至極当然な姿勢であり、へりくだった態度のように見えますが、心の奥底は、失敗を他人に見られることや、自分の中身をさらけ出すことを恐れているわけです。そういう人にかぎって心が固く、自分の頭で考えていることが、あたかもまちがいないことのよう思いこんでいます。これは慢心以外の何物でもありません。

お人柄を第三者が語るものをはじめて読んで、「お前は自分を何様と思っているのか」って、やっぱり言ってたんだ、と。こういう本質をいわない昨今の教育関係は、とっても気持ちが悪いです。
「あんた自分のことしか考えてないね」「ちょっとぐらい、笑ったら?」とか、ズバズバいう師匠のもとでヨガをするのは、本当に幸せなことであるなぁと思います。


かなり厳選したつもりなのですが、ものすごく長くなりました。
ここまで読んだ人は、この本買うなり借りるなりしたほうがいいと思うのですが、この本でなくても沖先生の人間教育本はかなり痛快です。入手しやすいものから、触れてみることをおすすめします。

ヨガによる人間回復への道〈1〉

ヨガによる人間回復への道〈1〉


沖正弘先生の関連書籍はこちらにまとめてあります。