うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

レイム・ディアー  ヴィジョンを求める者

レイム・ディアー―ヴィジョンを求める
ひとことでいうと、アメリカ州先住民族の精神性を伝える本。テルテルさんのおすすめで知りました。
ジョン・ファイアー レイム・ディアー翁の口述をリチャード・アードスさんという人が編集し、それを元「宝島」編集長の北山耕平氏が翻訳したものです。リチャードさんがおかしな縁に普通に巻き込まれていったことと、北山氏の情熱的な仕事によって、この素晴らしい教えを知ることができた、という状況です。

読み始めてまず、わたしはアメリカ原住民の歴史背景を知らなすぎるなぁ、と。この本は歴史の勉強にもなりました。註釈の文中で知った「ワシタの虐殺」「サンド・クリークの虐殺」などは、人間が起した残酷な差別の歴史として、インドの不可触民についての話を読むのと同じ気持ちでした。(歴史のお勉強には「こちら」のサイトが読みやすく、親切です)

読んでいて、「それってヨガじゃん」「神道じゃん」と思うところが多々あり、先の残虐な歴史以上にヨーガ哲学との共通性を多く感じました。
そもそも分厚い本なので、心のメモもどっさりです。以下に出てくる「メディスンマン」とは、「癒す者」という意味を持ち、レイム・ディアー翁はその儀式を受けてメディスンマンと呼ばれる人になった、という前段をいちおう補記しておきます。

<19ページ 山のうえにひとりで より>
そのとき、声が言った。
「お前はメディスンマンになるために、お前自身を生贄としてここにこうして捧げている。いずれ時がくれば、お前はお前の望むものとなろう。ほかのたくさんのメディスンマンたちを教えることにもなろう。われわれは、鳥とよばれる人間たちである。翼を持つものの一族、鷲たちであり、フクロウたちである。われわれはひとつの国を形作っており、やがてお前はわれわれの兄弟のひとりとなろう。
今後は絶対に、われわれの仲間たちを、ただのひとりたりとも殺したり、傷つけたりしてはならない。いついかなるときでも、ここ、この山にヴィジョンを捜し求めてくれば、お前はわれわれのことを理解しよう。薬草や、植物の根について学び、たくさんのひとの病を治すことになろう。だが、そのひとたちになにひとつ見返りを求めたりしてはならぬ。よいか、人間の一生は短い。自分に与えられたその短い一生を価値あるものとせよ」

メディスンマンになる儀式のときに聞いた、鳥の言葉。「人間の一生は短い」と、鳥に教えられる場面。
鳥ってめちゃくちゃいっぱい喋ってるよなぁ、と近所の竹やぶで夜な夜な会議をしているすずめたちを見て思う日々なので、ゾクっとしました。

<21ページ 山のうえにひとりで より>
わしらスーの一族に生まれた者は、自分たちのなかに、その自分達をコントロールしているなにかがあることを信じておる。それを言うならば、まあ、もうひとりの自分みたいなものだ。
わしらはそれを「ナギ」とよんでいる。

うちこの身体をコントロールして勝手に脚の可動域を広げてくれたりする謎の誰かのことを、今後はナギさんと呼ぼうかな。そうすると、しっくりくる。

<108ページ 緑色の蛙の皮 より>
「食べものというのは、ただ身体のなかを通り抜けていくものではない」
 伯父さんはそんなことを言ったものだった。
「食べもののなかにはスピリットがある。スピリットがその食べものを守っているのだ。だからもしお前がけちんぼうだったりすると、スピリットは
『なんて窮屈なやろうじゃないか、こんなところにいるのはごめんこうむる』
 と考えて、さっさとお前のなかからでていってしまうだろう。だが、お前が自分の食べものをほかの者たちと分けあうようなら、この良いスピリットはいつまでもそこに居つづけてくれるのだ」

マクロビ的ですね。家畜の肉には「殺すなぁぁぁぁ!」というエネルギーが含まれると聞いてからお肉が怖くなったうちこですが、「みんなで仲良く、美味しくたべてくれるなら!」というスピリットが含まれると思うと、少し前向きになれます。

<158ページ 緑色の蛙の皮 より>
ペヨーテをやめたときには、わしもすでに、スー一族にとっての本物のヴィジョンとはいかなるものであるかがわかっていた。すべてが夢のなかの出来事であるなら、それはヴィジョンなどではない。夢なら誰でも見ることができる。もし仮になんらかの薬草を使えば、そうさな、それがたとえそこらの肉屋の小僧であったとしてもだ、ペヨーテを食べた後でなら、調理台にむかいながらだってヴィジョンのひとつぐらいは見るだろう。いずれ本物のヴィジョンは、どうしようもなくその人間をその人間たらしめているところからでてこざるをえないのだ。それは夢のなかの出来事などではない。」

<583ページ 傷つけるべからず より>
今この段階におけるわしの理解では、できうるなら自分のヴィジョンは、自分の身体のなかで、自然に醸しだされていくものであって欲しいと考えている。ヴィジョンはあくまでも、太古より伝わる、あのきついやり方をとおして、自らの努力によってもたらされるものでありたいというのが、正直な気持ちだ。

ヒッピームーブメントとヨガとLSDビートルズ周辺)のお話と似ています。自らの努力によってもたらされるものを、即席で手に入れようとする人に、ビジネスが発生する怖さ。ここではペヨーテが題材となっているだけ。

<298ページ 「丸」と「四角」 より>
この宇宙を構成している要素、それも四つだ。
土、空気、水、火。
この四つ。

インドも仏教も五要素ですが、「風」がないのは風土の違いでしょうか。

<306ページ 「丸」と「四角」 より>
(インディアンの描く図形の説明の一部から)
さあこれでわしらも宇宙とひとつになった。
わしらはここで、すべての生あるものたちと、終わりのないひとつの円環でつながっている。

宇宙と一体化する観念は、インドから中国を経て日本へ伝えられたものと共通しています。大日如来的。

<313ページ フクロウと蝶ちょに話しかける より>
考えてもみるがいい。一生をそんなところで小さく身を屈めて送らなくてはならないとしたら、ニワトリたちはいったいどうなるというのか?
不自然で、気の狂った鳥たちが、身体にいいわけはなかろう。
こういうものを食べていたら、ろくな人間にだってならない。
お前さんたちはそうやって自分自身を玩んでいるのだ。
(中略)
普通の男を、取締役にしてみたり、社員にしたり、タイムレコーダにタイムカードをいれる人間にしたり、女を「主婦」などという真にきわめて恐ろしい生き物に作り替えてみたりしているではないか。

定義するという行為は、特にビジネスの場面で正義のように率先して行われることだけど、そうではない組織論が「愛」だったりするところが、この本の深いところ。

<327ページ フクロウと蝶ちょに話しかける より>
今でもメディスンマンのなかには、天気を変える力を持つ者がいる。だが、いくらその力を持っていたとしても、その人間は軽々しくその力を使うべきではないともされている。あくまでもほんとうに必要なときにのみ、その力を使うことは許されるのだ。

スワミ? 土木事業家としての空海さんのようでもあります。

<363ページ フクロウと蝶ちょに話しかける より>
(レイム・ディアー翁の言葉)
「わたしは自分のことをメディスンマンなどとよばれたくないと思っている。たんなる癒す者でけっこうだ。それがわたしの天職なのだから。自分はなにかをもらいたくてやっているわけではないのだ。なるほど白人の医者にかかれば治療費が取られる。牧師さんに祈祷をしてもらうのにだって金がかかる。だがわしのところに来れば無料だ。そして家に帰るときには病も癒されている。その人間が元気になること、それがわたしに与えられる報酬なのだ。ときには自分の力が足りないこともある。そういうときにはわたしも悲しくなる。力があるときには、やっぱりこっちも幸せな気分になる。(以後略)」

天職についての、ありがたいお言葉。

<414ページ 良いメディスンと悪いメディスン より>
お前さんたちは十把ひと絡げにしてひと口に「メディスンマン」などと簡単にかたずけてしまうが、そのなかにはさまざまな種類のひとたちがいて、それぞれにやっていることもみんなちがっている。わしらは、そうしたひとたちにすべてちがう名前をつけて、はっきりと区別するのだ。
まず最初に「病を癒す者」がいる。
そのひとたちはヒーラーで、わしらは彼らを「ペジュタ・ウィカサ」とよぶ。
これは「薬草の人間」と言う意味だ。
むろん彼らとてただ薬草を使うだけで病気を治せるわけではない。そのひとたちは薬草の知識以外にも、ワカン(神聖な、超自然的な)な癒しの力を自分のものにしていなくてはならない。
つぎに控えているのが「ユウィピ」だ。
ユウィピは「結わかれた者」で、彼らは生皮と石の力を使って、なにかを見つけだしたり、病を癒したりする。
さらにまた「ワアヤタン」とよばれるひとたちがいる。
これはヴィジョンを見る人間だ。
このひとたちは未来に起こる出来事を予言する。
彼らには、さきを見る力が授けられているのだ。
このひとたちが予言をして、後に実現したもののことを「ワキンヤンピ」とよぶ。しかもワキンヤンピという言葉には、ほかにも「翼を持つもの」とか「天と地のあいだを飛ぶもの」などの意味がある。なぜかというと、未来を予見する力は鳥たちから授けられるものだからだ。
さらには「ワピヤ」とよばれる者たちもおる。
ワピヤはいわば「祈祷師」だな。場合によっては「呪術師」だとか「呪医」「ウイッチ・ドクター」などとよばれることもある。

癒しと自然が密着し、ここまで細分化されていることが、アメリ先住民族の精神性の本質をあわらわすものであるように感じました。

<539ページ 太陽を見つめて、彼らは踊る より>
わしらにとっては、喜びのなかに苦痛があり、苦痛のなかに喜びがあるのだ。
ちょうどわしらの道化が、面白おかしい人間であると同時に、悲劇の主人公でもあるのと、それはよくいているかもしれん。
そのふたつは、同じものの持つふたつの顔にすぎない。
自然とは、もともとそういうものではないか。
悲しくもなければ、また、楽しくもない。
それは、ただ、存在する。

諸行無常の教えのようです。


ほかにも、モカシンだったり織物だったり、ファッションを通じて知っていたものが、彼らの生活にとってのなんであるか(靴だよ、とかそうゆう意味ではなく)とか、モチーフに込めたストーリーや、神秘性というよりもその「思い」が伝道されてきた歴史に、思うことがたくさんありました。