うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヨガと神道 山陰基央 著

ヨガと神道
図書館で借りて読みました。以前、沖正弘氏の「ヨガ行法と哲学―人間を改造する」を読んだときに、巻末の「霞ヶ関書房」書籍紹介で見つけ、図書館にリクエストしました。
写真の通り、タイトルの金文字が乱歩映画、もしくは西遊記の各話タイトルのような書体(笑)。借りている間、「ザ・昭和」なうちこルームの、最強インテリアになっていました。
アマゾンでは取り扱いがないので、この本は買えないのかな、と思って検索しているうちに、テルテルさんのブログの記事にたどり着きました(笑)。紀伊国屋のWeb本屋で手に入れることができます。


テルテルさんはどちらかというと魂、神道側からのアプローチ。ダスカロスさんとかそのへんに興味がある人は、こちらの記事も読んでみると、双方からのアプローチが楽しめます。
 ★「ダスカロスの「エレメンタル」と神道の「気魂」


うちこはヨギでありますので、ヨギ的な視点で心にメモしたいと思ったところをいつものように引用、紹介します。

この本は、昭和41年ごろに霞ヶ関書房の岡本社長から「ヨガと神道」と題する比較論文の著作の依頼を受けて書かれたものだそうです。
とても古い本なので、アーサナがアサンと表記されたり、ラーマ・クリシュナをラマークリシュナと表記されたりしています。なんだか少し不自然な「てにおは」や、「これは今では誤字扱いかな」と思うものも原文のまま引用します。644ページもある辞書級サイズの本なので、これでもほんの一部です。


<80ページ 「熊山の仙人と至道仙人」の注釈 より>
「人を敬うこと神に仕へる如くせよ」とは古来神道の思想であるが、インドの大聖ラマークリシュナの言と同じである。

シンプルですが、よいことばですね。

<92ページ 「聖者神之家霊光師」より>
(筆者と霊光師の出会いの回想から)
これは聖者であると直感した。この清明の異人とどうしても話したくなったのである。私の心は、はずみ、胸の高鳴りを押えることはできなかった。
心なしか三浦関造著「幸福への招待」の扉の写真にあるインドの大聖ババヂ師の肖像画そっくりの顔にもひかれていたのである。
この「ババヂ」ということばはインド語で、訳すると「父」または「聖父」という意味であるということは後日わかったのではあるが、その当時は「ババヂ」が固有名と思っていたので、もしや、この「ババヂ」が私の前に出現したのではないかと思ったほどである。三浦関造が著書「幸福への招待」は、アメリカにおいて伝道されていた聖ヨガナンダー師の一代記の妙訳で、ヨガナンダ師の少年時代に出現されて霊導された大師であって、その名称不詳で、ヨガナンダ師は、ただ「ババヂ」と呼んでいられたようである。

「ババヂ」という綴りがなんだかかわいくて、メモしたくなっちゃいました。この、「幸福への招待」という本は図書館でも紀伊国屋でも見つからず、アマゾンで22,000円ですって。やれやれ。聖ヨガナンダー師の一代記の"妙訳"の"妙"がどんだけ妙なのかが気になります。

<113ページ 「神人・黒住宗忠の神道」より>
備前の国の俚謡に
 「お伊勢へ詣るよりや、親様おがめ、親に勝れる神はない」というのがある。
まことに、そのとおりであって、理屈をこねれば両親は代々の祖先に連る最初の祖先である。我々の祖先を朔上れば必ず太先祖の祖先神に至り、その遠祖神霊は宇宙の太先祖である神に至るのである。
その太元霊なる神は、子を生ましめて、その子を育て慈しむ親心の中に、天地の御祖神(みおやがみ)の愛の慈心をさし示される仕組みとなっているのである。
かつて聖者といわれ達人といわれる人々はみな親孝行者である。宗忠ひとり不孝者であるわけがない。この親子相愛の姿にこそ、最も美しい愛の表現があるのである。

「親に勝れる神はない」ということばが、"よいことば"メモ。「結局ヨガかよ、遺伝かよ」と思うことはあっても、「最初の祖先」と思ったことがなかったので。

<148ページ 「仏部密教渡来以前のヨガ」より>
おそらく久米仙人とは来目皇子のことで、大日経に記される観想法(ヨガ)を会得し、その効験をあげ、かなりの通力を得ていたのではあるまいか。
また兄・聖徳太子の夢殿は余りにも有名である。この夢殿とは聖徳太子が瞑想する堂舎であったということである。このように考えると聖徳太子は古代ヨーガの瞑想によってかなり進められた心境にゐられたものと解される。

以前同じ事を別の本で読んで(どれだか忘れちゃった)、気になって法隆寺へ行ってみたのですが、夢殿で瞑想していたのかぁ。

<154ページ 「由加神社について」より>
全国神社名鑑の中に「由加神社」が二社ある。それはみな岡山県下にあるのであって一社は岡山県児島市由加町にある。いまひとつは岡山県和気郡和気町大田原にある。
古来、両社共に崇敬者がある。もちろん、創建年代は古く、児島市の由加神社は天平年中(西紀七二九〜七六六)のことである。和気郡のは神社記では年代不詳となっている。児島郡の由加神社はもと「瑜伽大権現」と称した。和気郡の方は、社記では由加八幡宮と称した時代があり、その太古(かみ)は由加大神と称したとする。
天平年中と言えば、白山の泰澄、日光の勝道、法相宗行基らの傑僧(密教僧)が現れた時代である。

仕事仲間のオカン(というあだ名の人)が岡山出身で、ここ知ってる? と聞いたら「知ってますよ。なに?! ここヨガ関係あるんですか」と。オカンとは普通に「行基」さんの話ができたり、年中行事を重んじる人。彼女を見ていると、あの辺出身の人は神道の行いに親しみを持って生きているのかぁ、と思います。

<248ページ 尊徳精神から学ぶ神秘行の修道 より>
(二宮)尊徳翁も
「(中略)それ、我も人も、一日も命ながかれと願ふ心あり、惜しい、ほしいの念、天下みな同じ、何となれば、明日も、明後日も、日輪の出でたまひて、万世、変らじと思へばなり。
若し(もし)明日より日輪の出でまさずと定まらば、いかにするや。この時は、一切の私心・執着の、惜しい、ほしいもあるべからず。されば天恩の有難きことは、誠に顕然なるべし、よく思考せよ」(二宮翁夜話・第七話原文)
と述べられている。この言葉は、そのままヨーガ・スートラ(瑜伽経)の煩悩消除無明消滅の心得と同じであり、神道の人生訓である。

ただのガリ勉小僧だと思ってました。二宮さん、すみません。

<308ページ ヨーガの概念再考 より>
日本に渡来したヨガは前編で述べたとうり聖徳太子の頃には、伝わっていたのであるが、正確には伝教、弘法の二大師が唐から持帰ったというのが正しい、そのことは前述したことである。
空海は瑜伽(ヨガ)を「相応渉入の義」と訳し、三浦関造はヨガを「統覚」と訳し、岸本教授はヨガを「結合」と訳している。
(中略)
それはヨガ経の示す言葉の意義が、修道実践した行者にのみ理解されるものであるから観念論の言葉の解義だけでは極めて難解な経典といえよう。

「相応渉入の義」かぁ。つりあいがとれていること(相応)に、越えて(渉)、入っていく(入)、道(義)。辞書の通りに並べてみたら、これ名コピーですね。空海さんすごい。

<328ページ インドの自然環境の概観 より>
ヨーガとは、苦行とは言え、バラモンの苦行(肉体的)とは異なる精神的苦行として発達し、受け入れられてきたのである。
このバラモンの奥儀書たるウパニシャッドは、このような貧しいインドの風土の中から育ったのであるということを知らねばならぬ。人類の歴史は富裕な土地よりも貧しい土地に宗教的情操は深いものが発達しているということを教えてくれる。
かのユダヤ人の宗教が、荒野に住む貧しき民の宗教として発達したことを知るべきである。日本の神道の如きは、江戸時代の貧しい時代でさえ、その収穫は反収三俵から四俵あって二反もあれば一人の生活が一年維持できたのである。

ひとつの神にすがるほどの厳しい自然環境、風土と宗教の関係についてを語られている章から。「日本人なら知っておきたい神道」にも同じことが書かれていました。

<363ページ ヨーガ体系の概念 より>
(プルシャとプラクリティの二元観の解説の後)
(イ)神道と比較して
このことは山蔭神道伝承の「一霊四魂」の原理と全く同じで、プルシャは直日霊(なおひのみたま)に当り、プラクリティは四魂に当る。四魂とは「奇魂(くしみたま)、幸魂(さちみたま)、和魂(にぎみたま)、荒魂(あらみたま)」のことで、現象形成の四原素である。
かのプラクリティには素因(グナ)が三種あるとするが、国家神道学派は「和魂の中に、幸魂、奇魂が含まれる」とするから三原素説のプラクリティと類似する。だが古神道は四原素をたて、直日霊は常には四魂とは無関係に遊離して、極めて自由に存在するというのである。

高野山の鈴木さんが「魂の科学」を貸してくださったときに、同じことを言っていました。最近は神社で「魂」という文字が気になるようになりました。

<402ページ 修行の素材としての心 より>
プラーナとは、漢方でいう"気"であり、プラーナは流出して他人の体内にも注入できるとするのが、ヨーガ行者の体験的常識であるから、これは、あきらかに気流のことである。
(中略)
この極微の超波動粒子には、それ自体、善も悪もなく、無明から発する煩悩と結合して、悪微粒子として、空間に漂うことになるのである。それ故にこそ、敏感な神秘経験者(霊感者)は、不浄の邪気を、具体的に粘着性のある重い波動として感受するのである。

ここは、うちこが(中略)とした部分も開いた形で、テルテルさんの記事でも引用紹介されていました。
「短期的にも長期的にもこたえられない依存」とか、「良くない質の人気」とか、無駄に重くて対応に困るときがそれなんだろうなぁ。

<456ページ ヨーガ修行の方法と階梯 より>
神道の禊には「捨てる」ということも入っているのである。この"捨てる"の中には「空気を吐き出す、心の悩みを吐き出す、心の思を吐き出す」などが含まれているのである。そして執着、煩悩を吐き捨てることも入っているのである。
この「捨てる」ことは、三昧品第三三節にもある如く大切である。この貧しいということは"捨てる"ことを知らない心である。この「心貧しいが故に捨てられない」、ということは、慾執の中で毎日を暮らしているからで、やがては経済的にも貧しくなるのである。ものごとを貧しく理解し、その自覚の中で、沈欝な精神生活をしていると、段々、不如意になったり、大切なことを見落したりして、社会人の中では、無能者として断定される人格者になってしまうのである。

阿字観で体感したのが、捨てまくるそれで、「気持ちを捨てる技術」は、どんなお仕事にも役立つと思います。電車の中でもできるし。

<552ページ 霊と心身浄化の禊 より>
(佐藤通次著「哲学についての談話」を引用した部分から)
外観は科学に於て典型的に発揮されます科学は「世界、人生」全体として捉えることを始から断念し(本書中で中略)──知識の体系を築きあげる分科の学という意味で「科学」と呼ばれます。

この表現を見て、スリ・ユクテスワ師の書のタイトル「聖なる科学」って、そうゆうことか! と思いましたです。

<584ページ 金剛瑜伽発菩提心論 竜樹菩薩・所説 より>
(前略)
何がゆえにか月輪をもってたとへとなすならばいはく、満月円明の体はすなはち菩提心と相類せり。凡そ月輪に一十六分有り、瑜伽の中の金剛薩捶より金剛拳に至るまで十六大菩薩有るにたとふ。
(中略)
凡そ月のその一分の明相、もし合宿の際にあたんぬれば、ただし日光の為にその明性を奪はる。このゆえに現せず。のち起つ、月のはじめより日々に漸く加して、十五日に至って円満無礙なり。このゆえに観行者はじめに阿字をもって本心の中の分の明を発起して、只漸く潔白分明ならしめて無生智を証す。

大興善寺の三蔵沙門大黄知不空勅を奉じて訳す》
原典の註解:当書一巻、竜樹(竜猛)菩薩の作、不空三蔵の訳(智証大師は不空三蔵の著とす)其内容は密教の教旨により菩提を求めんとすものの心得を説きたるものにして、初めには菩薩心の大意を述べ然る後勝義、行願、三摩地を次第広釈す。

のちの易解に
どんな人間にも一分の浄性(成仏の素因)があり、たった一分といえども新月(月の十六分の一の細い月)の光に似た明るさを持ち、努力の修行が実れば、十五夜の満月を迎えるように浄明性を回復する。そのために、行者は"月輪"に集中して、その心を悟りなさい。
という内容はあるのですが、阿字については易解から省かれていました。本文のほうには「阿字は、これ菩提心の義なること」とあります。
「修行の間、いつも満月ってわけではないので、はじめに阿字観も体得するとよいでしょう」という読み取り方もできるように思います。


比較論文という形態の本は読み慣れていないのですが、「あれこれいろいろ繋がっちゃって、まいったなこりゃ」という著者さんの状況が想像できます。そして、ブログやWikipediaというのは素晴らしいツールであるなと。
この本の中には、「ヨーガ・スートラ」と「古事記」も収められています。「ヨーガ・スートラ」のほうはなじみがあるので普通に読めましたが、「古事記」のほうは、この本では目で追っただけのレベル。ちゃんと読みたいな、と思ったので、「アキバ系OL読書部・神道派」のシカちゃんに、「なんかない?」とリクエストしてみようと思います。