うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

走ることについて語るときに僕の語ること 村上春樹 著

近所に住む友人宅の本棚から拝借したもの。ランナーは間違いなく、あたたかい気持ちになりながら読めます。マラソンをする過程で感じていく、これから感じるであろういろいろなことが、真正面から向き合った真摯な表現で綴られています。
わたしは今年初めてフルマラソンに挑戦したのですが、たった一度のフルマラソン経験でも、同じように感じたことがたくさんありました。いくつか、紹介します。

<31ページ 誰にミック・ジャガーを笑うことができるだろう? より>
少なくとも走っているあいだは誰とも話さなくてもいいし、誰の話を聞かなくてもいい。ただまわりの風景を眺め、自分自身を見つめていればいいのだ。それはなにものにも換えがたい貴重なひとときだった。

そう、都会にいながらそうゆう瞬間を得られることが、やめられない理由。

<91ページ 真夏のアテネで最初の42キロを走る より>
このへんから本格的な疲労が襲いかかってくる。どれだけ水分を補給しても、あっという間に喉が渇いてしまう。きりっと冷えたビールが飲みたい。

単純に、共感(笑)。

<94ページ 真夏のアテネで最初の42キロを走る より>
マラトン村のカフェで、僕は心ゆくまで冷えたアムステル・ビールを飲む。ビールはもちろんうまい。しかし現実のビールは、走りながら切々と想像していたビールほどうまくはない。正気を失った人間の抱く幻想ほど美しいものは、現実世界のどこにも存在しない。

いや、ゴールしてすぐ飲んだらうまいでしょー、きっと(笑)。わたしはその幻想をまだ捨て切れません。

<151ページ もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった より>
「僕は人間ではない。一個の純粋な機械だ。機械だから、何を感じる必要もない。ひたすら前に進むだけだ」
その言葉を頭の中でマントラのように、何度も何度も繰り返した。文字通り「機械的」に反復する。

これが、実に。私の初フルマラソンの23キロ以降がそうでした。23キロ以上は初めて走る距離だったので、「あとはこのまま同じ動きをしていれば、ここまで来た時間と同じくらいの時間が過ぎたら終っているはず」と思っていたら、本当にそうなった。当たり前のことなのだけど。

<155ページ もう誰もテーブルを叩かず、誰もコップを投げなかった より>
終わりというのは、ただとりあえずの区切りがつくだけのことで、実際にはたいした意味はないんだという気がした。生きることと同じだ。終わりがあるから存在に意味があるのではない。存在というものの意味を便宜的に際だたせるために、あるいはまたその有限性の遠回しな比喩として、どこかの地点にとりあえずの終わりが設定されているだけなんだ、そういう気がした。かなり哲学的だ。でもそのときはそれが哲学的だなんてちっとも思わなかった。言葉ではなく、ただ身体を通した実感として、いわば包括的にそう感じただけだ。

同じことを感じます。ゴールが見えたとき、「これがこのイベントとしてのゴールなんだよなぁ」と思う感覚。海沿いを走るマラソン大会で、特にそう思いました。海岸線はまだまだ続くけど、「ここで終わりということにした」という、不思議な感じ。


ラソンもヨガも、同じ所作を繰り返す運動というのは、なにかと「いつもとの違い」に気づかされるし、「その"いつも"って、どんな状態のこと? 経験の平均? それとも、ちょっと理想が入っている?」という自問自答がとっても哲学的。
ヨガを「実践哲学」と表現した人がいたけれど、マラソンもこの点で、本当に同じ性質のものだと思います。
またフルマラソンを走りたくなってきました。

走ることについて語るときに僕の語ること
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