うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

ヒンドゥー教―インド3000年の生き方・考え方 クシティ・モーハン・セーン 著 / 中川正生 訳

ヨガ仲間の自宅の本棚から借りてきた本です。
初心者にもわかるように書かれていますが、そもそも日本人にとっては、神様がいっぱい出てきて、それぞれに崇高なエピソードとお茶目なエピソードと「それって、アホじゃね?」といったエピソードがあり、でもめっちゃ崇拝! というヒンドゥー教自体のこの不思議な感じを噛み砕くのがけっこう無理な話な気がします。著者の根気強さに脱帽。

いくつか引用して紹介しますが、なかでも最後に引用した「バウル」の存在にとても興味がわきました。ネットで検索すると、その音楽ばかりがヒットするのです。
(バウルは、バングラデシュとインドの西ベンガルの農村部に暮らす神秘的な吟遊詩人たちです。 引用サイト

<27ページ 「再生と解脱」より>
(「Religion of Man」 London 1931,p.198からの引用)
われわれは、感覚器官が衰えると、各器官に対してその機能をいつまでも維持するように要求するし、たとえ握力が弱っても、すでに手中にしたものはなかなか手放したがらない。まだ、免れがたい必然性を人間にとっては自然なことであるとして感謝しつつ諦めることができない。したがって、一切が突然の死によって奪い去られるまで、待たなければならないのである。

「感謝しつつ諦める」という表現が、メモしておきたい日本語。

<29ページ 「出家遊行の思想と無私の行為」より>
ガーンディー(ガンジーのことです)は、『バガヴァッド・ギーター』のなかに、彼の奉仕の精神の理想を見出したと語っている。同著の主人公クリシュナは次のように語る。

すべての欲望を投げ捨て、欲望をもたず、「私」「私のもの」という思いも捨てて進む人は、心の平安を見出す。プリターの子(アルジュナ)よ、これがブラフマンの境地である。
なんじの役目は行為にあり、決してその結果にあるのではない。行為の結果によって、心を左右させてはならない。また、無為に執着してはならない。富を得た者(アルジュナ)よ、ヨーガに従

って執着を捨て、成功、不成功には無頓着に行為せよ。平静な心こそヨーガである。
以前『バガヴァッド・ギーター』の感想を書きましたが、ここはピックアップしませんでした。目標評価主義を理解し間違えているすべての人に、『「私」「私のもの」という思いも捨てて進む人は、心の平安を見出す。』という言葉を贈りたい。

<74ページ 「梵我一如思想」より>
梵我一如思想は、『チャーンドギヤ・ウパニシャッド』のウッダーラカ・アールニが、息子シュヴェータケートゥに与えた教訓のなかで説かれる。(中略)

「わが子よ、この塩を水に入れ、明朝私を待ちなさい」
息子は言われたとおりにした。
(父が息子に言った)「昨晩水に入れた塩を持ってきなさい」
息子は塩を探したが、水に溶けてしまっているために見つからなかった。
(父は言った)「水の上澄みをなめてみなさい。どんな味がするか」
(息子は答えた)「塩からいです」
「なかほどの水を試してみなさい。どんな味がするか」
「塩からいです」
「底のほうを試してみなさい。どんな味がするか」
「塩からいです」
「それを捨てて、わたしを待ちなさい」
息子はそのとおりにした。塩は(水に溶けたまま)永遠に存在している。

そこで、父は言った。「わが子よ、ここに、この身体のなかに、お前は有を認めることができない。しかし、ここに有は存在している。この微細なもの、これが存在するすべてのものの本性である。それは真なるものである。それは我(アートマン)である。お前はそれである。シュヴェータケートゥよ」。

アートマンについては、いつもわかったようなわからないような感じに陥るのですが、これが今まででいちばんわかりやすかったです。


<160ページ、167ページ 「バウルの系譜」より>

(160ページ)
インドの宗教のなかでも、ベンガル地方のバウル(Baul)ほど特異な様相を呈しているものは少ない。バウルについては、ベンガル地方以外ではほとんど知られていないし、同地方においてもあまり尊敬されてはいないが、神を求める素朴な人間の最も感動的な例を示している。彼らの神に対する呼称は「わが心のうちなる人(神)」である。


(167ページ 「調和の精神」より)
バウルのもう一つの教義に、過去、現在、未来の間の調和をはかるトリカーラ・ヨーガがある。それは、時間の各次元に適切な重力をかけることに失敗して、人は自己の生の継続を断ち切ってしまうのだ、と説いている。


 あなたの生は、高価な大理石の橋である。しかし、悲しいかな、川の両岸をつなぐことには失敗している。


このように、バウルは、物質的欲求と精神的欲求の間の調和の必要性を強調する。


(中略)あるとき、一人のヴィシュヌ教徒が、彼の聖典のなかから、宗教活動の規則を説いた長い一説を取り出し、バウルに忠告した。それに対してバウルは、即興の詩で次のように答えた。


 一人の金細工師が、花園を訪れたとしよう。
 彼は、蓮の花びらを、試金台の上でこすりつけて鑑定するだろう。

この2つの詩、すごくないですか? 久しぶりに詩を読んでゾクッときました。


また読みたい本が増えちゃったなぁ。

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