うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

悩め、人間よ ― 親鸞、空海、日蓮、隠された人間像 山折哲雄 著

知れば知るほど、仏教とヨーガの関係の根深さを確認させられる読書ライフが続いております。
あまり深く考えずに「空海」の文字が入っていたので買って読んでみたのですが、以前より気になっていた「最古国産ヨギは聖徳太子?」という思いを裏付ける内容が書かれていました。3つ引用紹介するなかの、まんなかの項目です。(写真はその内容に出てくる法隆寺釈迦三尊像です)

電車の中で読んでいると「こいつヤバいんじゃないか?」と思われそうなタイトルの本ですが、非常にわかりやすく日本の仏教の歴史や名僧侶さんたちの思想の違いを学ぶことができる一冊です。親鸞さんが現代で人気がある理由について、自分なりに納得。後半のコラム的な内容は特に興味深く読みました。

3つ、ヨギとして知って損はないと思った内容を引用紹介します。

<169ページ 「晩年の親鸞の肉声をつづった書」より>
第七条   念仏者は無礙の一道なり。 (無礙/むげ)
念仏者の前に立ちふさがったり、脅かしたりするものは何もない。念仏の道は明々と輝いているただ一筋の白道である。そこを行く者にたいして天神や地祗も平伏し、悪魔や敵対者も道をゆずるというのである。この親鸞の「無礙の一道」は、後世の芭蕉における「俳諧の一筋」と重なっているようにみえないだろうか。芭蕉のいう「西行の和歌における、宗祗の連歌における雪舟の絵における、利休が茶における、その貫道するものは一なり」の思想につながるものでもあろう。

なにか、ひとつのことに継続して打ち込んでいるすべての人に、親鸞さんと芭蕉さんのことばを贈りたいと思って引用しました。

<208ページ 「聖徳太子の坐り方」より>
釈迦三尊像が飛鳥彫刻を代表する止利派の傑作であることは、いまさらいうまでもない。(中略)この中尊の台座には大きな懸裳がひろげられ、如来と合わせて全体がちょうど二等辺三角形をかたちづくっている。さらにその足組みをみると、右足の裏をかえして、反対側の太ももの上にのせている。左足も同様に組んでいる。いわゆる釈迦の坐法とされる「結跏趺坐」の坐り方であるのだが、しかしここでは、足首から上部にかけての部分が深く弓なりに屈折している。そこが通常の結跏趺坐とは異なって、生々しい力動感を伝えているのである。

この、釈迦三尊像の「結跏趺坐」の説明をヨギとして補足しますと、いわゆる「縛られた蓮の花のポーズ」同等の足の組み方である、ということです。足首の柔軟性が熟練ヨギのレベルである、と。以前ほかの本で、日本人ではじめてヨーガ的な修行を積んでいたのは聖徳太子であるといった説を読んだことがあるのですが、ヨーガ的な修行を積んだのが聖徳太子さんで、それを教えのなかの修行に盛り込んだのが空海さんということでしょうか。興味が尽きません。

<229ページ 「親鸞日蓮、その関係と違い」より>
私は日本仏教には、大きくいって二つの流れがあったと思う。一つは、人間いかに生くべきかを追求したもので、主として空海密教的立場がそれにあたる。すなわち現し身(うつしみ)のまま仏になるという「即身成仏」の考え方である。徹底した現世的生命主義といってよく、日蓮の思想もこの流れのなかから生まれた。ところがこれにたいして、もう一つの流れが、人間いかにして死ぬべきかを追求した行き方であったと思う。その立場を明らかにした代表選手が平安時代源信であり、鎌倉時代法然親鸞であった。その根本的な考え方は、現世を浄土の光明によって照らしだそうとした点で、いわば来世的生命主義に立つものといってよいだろう。

これは、とてもためになり、わかりやすい解説だなぁ、と。今まであまりこのようにわかりやすくその二極性を比較した解説を読んだことがなかったので。そして「現し身(うつしみ)」ということばが、とてもヨーガ的です。


ちょうどこの本の終盤にさしかかっているとき、知人と「現代において親鸞さんに人気がある理由」について語り合いました。今日も本を貸してもらったので、お返しにこの本と数冊を持っていくかな。