うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

再会のうれしみの果実


昨年から強く感じることが続いている、ヨガのフルーツのこと。
インドのヨガに関連する英語の文を読んでいると fruit とか fruitsless という語がよく使われます。fruitsless yogi だなんて、ずいぶんはっきり書くもんだなと。そのせいもあってか、ヨガをやっていてよかったと思うとき、フルーツという語が頭に浮かびます。


それは成果という意味なのだけど、ヨガを続けていると、ふとした再会がとてもうれしい。いまも自分で練習の場を設けているのは「場」を畑のように感じるからかもしれません。昨年は地方開催の生ブログのあとに「うちこヨガのクラスでかつての練習仲間と再会できた」という声を聞かせてもらえたことがあって、農夫としてのよろこびを感じました。
わたし自身はヨガを始めてから14年になろうとしているのだけど、いまもなにかしらのヨガブームが起こり続けています。2月と3月は海外や地方に住む三人のヨガ仲間と再会しつつ長く語らう機会があって、さまざまなことを思いました。


わたしはここで日記のようにブログを書いていることもあり、友人知人へ個別の近況報告をすることがほとんどありません。会ったときに話をしてくれる人が「前にうちこブログに書いてあった、あれが…」と言ってくれることで、そのとき文章から削除したさまざまな思いが解凍されて、ああわたしは本当はこんなことも話したかったんだよな…伝えたかったんだよな…ということに気づくことがあります。
"本当は" というのは、やはりブログは不特定多数の人が読む文章なので、とくに最近は削除する部分が多いのです。"とくに最近は" というのは「スマートフォンを持つ人が多い時代なので」という意味です。
ひとりのときに手元の画面で読む文章は、パソコンで見るよりもよりパーソナルな関係になります。自分に起こっている固有の事象への紐付けが強くなりやすくなります。そんなときにたまたま読んで、ものすごくシリアスな人だと思われるとミスマッチが起こります(笑)。なので近ごろは、わりと説明を砕いて書くようにしています。



先月、銀座のヨガクラス前の雑談で練習者のかたと「春の自分の発言・行動のゆらぎがこわいよね」という話になって、「ヨガの効用は、失言が減ることかも…と、春になると思う」なんて話をしたのですが、心がざわめく季節ほど、ヨガでなんとか社会環境に対してグリップできると感じます。その「グリップ」という方法が存在することを認識するのにわたしは10年以上かかっているし、使いこなせるようになるのはまだ先。そのための練習をしています。よろめいても、大丈夫と思えるように


春は出会いと別れの季節。あなたはどんな人と出会い、再会したいですか? それは出会いと関係のサンカルパ。
わたしは今年1月のギーター読書会をきっかけに「関係」への執着について考えたことがあって、近ごろはこの点について思索が続いています。