うちこのヨガ日記

ヨガの練習や読書、旅、生活、心のなかのこと。

小説の読み方、書き方、訳し方 柴田元幸×高橋源一郎 著


インタビュー記事も含め、対談の形で書かれている本。すごくおもしろかった。
ヨガを一緒に練習する人たちと「読書会」を開催するようになってから、言語感覚もあわせた「身体観」が気になるようになりました。そんななかで読んだので、翻訳家と作家の語る身体論に刺さるものが多く、出だしの「頭を使わなくなるためには、ある程度は勉強はしないとだめです。語学の勉強って、語学のことを考えなくていいためにするものだと思います。(25ページ / 柴田元幸氏)」という言葉がズドーンと響きました。
自分の勉強でも感じますが、読み書きもそこから自分のフィルタを通じてアウトプットすることもまさにアーサナと一緒で、練習すればアーサナのことを考えなくてもよくなっていく。


漱石グルジ関連のエピソードも出てくるから、読み物としてもおもしろい。

近代資本主義国家のこわいのは、どこか一点を中心にして展開しないと無理なことなんです。資源がないから。それで、すべての文化資産を東大に集めたんですね。僕が昔、伊藤整の『日本文壇史』を読んで不思議だったのは、鴎外と漱石や、樋口一葉森田草平がそれぞれ時を隔てて同じ家に住んでいたという事実です。なんでこんな異常なことが起きたのかというと、つまり、みんな近所に住んでいて、条件に合う家を探していったら、同じ家になっちゃったからです。
(68ページ 小説に「物語」は必要か? / 高橋源一郎氏)

同じ家って!



 いま読むと当時(鴎外、漱石二葉亭四迷らの時代)の日本の作家は、すごくはしゃいでいるように見えます。言文一致体を手に入れて、「こんなにすごいものが書ける」とはしゃいでいる中で、何人かが「はしゃぐな。これはこわいことだよ」と警鐘を鳴らしていた。その意味合いはいろいろあったと思うんです。それは一言で言うと、「実力以上のことを書いちゃだめだ」ということです。つまり、「ニッポンの小説」が可能とした言文一致体、その散文を使うと意味ありげに見えちゃうんですね。それが作家たちを魅了した理由だったと思います。自分で真剣に考えていないのに真剣に考えたように見えてしまう、極端なことを言うと、さっき言っていた「嘘なのに本当に見える」ということにつながると思うんです。そのこわさを、その人たちは知っていたのです。
(74ページ 小説は、「本当」の看板を掲げた「嘘」でいい / 高橋源一郎氏)

はしゃいでなきゃ、あんなイヤミなくらいカタカナ入れてこないよね! (笑)



(19世紀のアメリカの文学を他国と比較して語る流れで)
柴田:本来はオーソドックスなものを組み立てて、次に破壊的なものが出てくるはずなのに、もう突然、小説とは何かという問いをつきつめちゃってて、破壊していくところからはじまっているんです。こういう乱暴さ、危うさはやっぱりほかの国にはそうないのではないかな、ということです。
高橋:なぜでしょうね。
柴田:やっぱり国の成り立ち方が、「われわれはこういう国だ」っていう言葉による宣言からはじめたということが大きいのではないかと思います。つまり王様の首を切ることではなくて、「私は何々である」と規定することからはじめられたというか、はじめなければならなかったという背景の影響ではないでしょうか。国の発生事情からして、自意識の文学が生れることが必然であった、と。
(91ページ 「アメリカ文学」ってなんだろう?)

ここを読んでいて、日本語の特殊さを思いました。ずっと宣言しないでいいままの国の言語なので。



これに続く流れもおもしろい。

高橋:アメリカ文学は常に起源に立ち戻りますよね。人工的に「アメリカ」あるいは「フリーダム」というものを作って絶えずそこに戻る、あるいは発見する、というのが自身を動かす動力のようになっている。
柴田:そうですね。
高橋:日本の文学の場合も起源はなくて、実は同じように人工的に作られているんですよね、要するに明治三○年ぐらいにロシア文学の輸入があって、四迷が言文一致を完成させた。その一方で漱石はイギリスが背景にあって、鴎外の場合はドイツです。なぜここまで違う三者が日本近代文学を可能にしたのか、説明するのはなかなか難しいんですが、ただこの三人に共通するのはやっぱりみんな違和感を持ち続けた作家ということですよね。二葉亭四迷は何を書いても本当の気がしないろはっきり言っているし、漱石漱石でロンドンに行ってまともに英文学を向き合おうとして神経衰弱になりますよね。鴎外はその違和感とどう向き合ったかというと翻訳をしたんですよ。鴎外ってすごくおもしろいんですけれど、鴎外の著述の中で一番多いのは翻訳なんです。しかもそれをルーティンワークとして毎日やっていた。だからア・ウェイ・オブ・ライフとしていきなり翻訳をした人なんです。
柴田:いやー、森鴎外村上春樹って似てますねぇ。
(97ページ 日本近代文学が最初に直面した問題は「翻訳」だった)

「ア・ウェイ・オブ・ライフ」「森鴎外」「村上春樹」の言葉が並ぶと、なんだかおもしろい。




この本には両者のおすすめ小説がリストアップされていて、また読みたい本が増えてしまいました。
最後に。
この本のなかで高橋源一郎氏が語っていた、小説のコードに対する姿勢の話は必読。作家には以下の3つの態度があるという話。

  1. (コードに則っていると)わかっているけれども面倒臭いからコード通りに書く。
  2. コードのあるものはかけないので書かない。
  3. 「コードがあるよ」と書く。

プロレスかガチンコかというような話なのですが、何事に対しても「態度」ってたしかにあるなぁと思いながら読んで、おもしろかった。


おもしろくてイッキ読みして、さらにまた本が読みたくなる。そういう本でした。

小説の読み方、書き方、訳し方 (河出文庫)
柴田 元幸 高橋 源一郎
河出書房新社
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